源さんが行く123
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
幕府の東蝦夷地直轄の影響を受けた大畑の記録13です。
寛政十一年(1799)の記録・其の十三
■小判一両*1を「四匁八分砂金」と称し。
この一分の両替を二倍に計算して通用させるという。
小判一両を「永一貫」*2と言って、これを実際に両替に適用することに、「ソウダロウ」「すさまじい」「気が強い」「鋭気*3になって」などの言葉が流行り出した。
江戸の人間たちの、一時の余風(ならい)なのだろう。
永楽銭に換算することを「永代」と言ったり、北条家が権力にあった時代に永楽一銭を鐚銭(びたせん)四文にあてた前例もある。
三月、赤魚の群れ
大間にニシンの群れ
疱瘡(ほうそう)伝染
五月、マグロが大量に獲れ一貫目が百文の値段
大畑川の河口から大石(地名)までで、イワシが七釜も獲れた。
魚に追われて入ったものか、それとも汐の流れに乗せられて来たものか。
仙台の道端に生えていたという竹島百合が運ばれてきた。
関根からも届いたが、この花を煮詰めて生薬のサフランを作るのだとか。
葉牡丹は盛岡から。
これは蕪の花のような細い茎を摘み取り、何日か置くと、葉が組みあがってきて牡丹の花に似てくる。この枝を折り取り、四、五寸も埋めて数日水を注いでやると根づく。
盛岡からは八重の野菊と雁皮*4、罌粟(けし)、桔梗、水仙、二重霧島(つつじ)も届いたが、残念ながら私は好事*5ではいられない。今年、中の院(宝国寺)で行われた千日講に参加し、来年もまだ続く。
画仙紙*6長さ五尺八寸・幅三尺三寸が大畑にもたらされた。
毛辺紙*7四尺五寸に二尺。
寛政の頃まで大畑では三十二文の値段だったが、享和になって百二十文と高くなった。
外国から伝わった雁皮紙の製法を学んで書画用の紙を我が国でも漉(す)けるようになった。
紙の歴史をたどると、古代中国のフクギ*8が木に文字を刻み、虞舜*9が毫(筆)を造り漆で筒に書いた。刑夷(けいい)が墨を製造し、仲由(ちゅうゆう)が硯を作り、史チュウが布に書いた。
東漢の和帝の時代の永元二年(105)蔡倫(さいりん)が紙を漉かし巻物にして献上した。唐の時代になって折本ができ、宋の時代に綴じ本となった。
我が国では推古天皇の時代に高麗から製法が伝わり紙を漉くようになった。
以上、寛政十一年の春から秋にかけての源さんの記録でした。
幕府の東蝦夷地直轄支配によって、大畑中が物凄く忙しかったことがわかります。
源さんが「気がついたら季節が秋になっていた…」という文章からも伝わってきました。
さて次回は、もうちょっと幕府東蝦夷地直轄支配を原始謾筆風土年表・資料編から続けたいと思います。
へつづく
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