よもぎたむらができるまで28
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
奥州藤原氏の物語は後三年合戦のその後へ進んでまいります。
奥州藤原氏・其の弐
朝廷は藤原清衡を東北の新しい支配者と認め、陸奥国押領使*1の肩書を与えました。
清衡が最初の拠点であった江刺郡豊田館*2を離れて平泉に進出したのは、後三年合戦から十年以上過ぎた十一世紀末と見られています。
蝦夷と朝廷勢力の境界とされる衣川より南に位置する平泉に進出できたのは、朝廷の力が同地域で弱まっていたからだろうと思われます。
源氏の勢力が、後三年合戦で勝利に貢献したにもかかわらず、陸奥に支配権を確立できなかったことも原因です。
平泉は衣川(北)、北上川(東)、磐井川(南)と、三方に川があります。
この地に清衡は行政を担う館を造り、次に中尊寺を建立します。
寺伝によると、中尊寺は九世紀半ばが発祥とされていますが、実質的には十二世紀初頭、清衡によって創建されました。
清衡はすでに五十歳前後になっており、その頃の感覚ではもはや晩年と言えるでしょう。
大伽藍*3を造るのには極めて高度な技術が必要です。
当時のあらゆる先端技術は寺院建築から始まっていました。
中尊寺建立のため職人を呼び寄せるのは、平泉にあらゆる技術を結集させることでもあります。
寺をこしらえれば、僧も集まる。
当時、僧というのは最高の知識人でした。
宗教を利用して技術と知識を集め、平泉は京の都をしのぐ活気ある場所になっていきます。
清衡の巧みな戦略のおかげです。
でも決してそれだけではありませんでした。
清衡の考えの根底には、生きとし生けるもの皆平等という浄土思想があったのです。
後三年合戦がなければ、清衡は清原の家で飼い殺しのまま生涯を終えていたはずです。
実際、そうした境遇で三十歳ごろまで過ごしていました。
当時の三十歳は、今なら五十歳くらいの感覚だと思われます。
つまり五十歳くらいまで将来の展望もなく、自分は何者でもないという意識を持った人間でした。
だから、支配者の側より庶民の側にいる意識が清衡にはあったのだろうと推測されます。
そのため万物平等という浄土思想を、ごく自然に受け入れていたのではないでしょうか。
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
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