よもぎたむらができるまで31
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
奥州藤原初代・清衡の話を続けます。
奥州藤原氏・其の伍
当時の日本では浄土思想は廃れていました。
にもかかわらず、清衡はあえて浄土思想を採用しました。
浄土思想を簡単に説明すれば、極楽に阿弥陀様がいて、死ねばそこで安楽に暮らせるという教えです。
けれども、それでは現世の救いには全くならない。
そのため一度廃れて、天上にある極楽のようなものを現世につくればよいという考えが生まれました。
実際にそういう世界を造れるのは大権力者しかいません。
ですが、ピラミッド型の権力の構造がある世界では、万人平等の考え方は成立し得ないから、現世の極楽など理想論だと退けられます。
次に出てきたのが、極楽は自分の胸の内にあるという、禅宗に近い哲学的な考えでした。
浄土宗は中国でも日本でも捨てられていました。
それを清衡が復活させたというところが重要なのです。
清衡は平泉に都をつくり、陸奥を自分の国にしましたが、自分は権力者だという意識を持っていませんでした。
だからこそ、素直に浄土宗を理想の姿として提示することができたのです。
ほかの権力者では絶対に発想できない万人平等の思想をです。
しかし、認められるまでには時間がかかりました。
権力者がいながら万人平等を謳うなど言葉だけのことで、その実態を証明しなければ認めないという理由からでした。
東日本大震災が起きた時、被災地と呼ばれる地域は、偶然にも福島、宮城、岩手など藤原清衡が支配した地、奥州藤原氏の文化圏でした。
その被災地の人たちの、自分のことより他者の辛さを思いやる姿が、ニュースとして世界中に流されました。
世界文化遺産の登録を申請していた平泉、藤原清衡が作った国は、もともとこのような国だったのではないか、そのDNAが今に受け継がれているのではないか、そうユネスコに受け止められたことが、実は登録につながったのだと思われます。
清衡が平泉で育んだ東北の「和」の魂は、今の東北の人々の中に受け継がれてきたのです。
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10