こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く29

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

源さんの記録によるクナシリ・メナシの戦いは続きます。

 

 クナシリ・メナシの戦い・其の弐

 十三日には海を渡り標津*1を襲い、 支配人の笠島荘治郎(大畑出身)組の九人を傷つけ、

忠類*2古多糠*3の支配人の向井金兵衛組の十七人も射殺(いころ)した。

 

 もう一つのアイヌの一団は、クナシリから崎無異*4へ渡り、支配人の藤島辰五郎組の九人を毒矢で射殺し、

尾呂間府*5連淵別*6の支配人の藤井勘兵衛(田名部出身)組の十人を皆殺しにした。

 

 十四日のまだ夜も明けやらぬうちに、この二つのグループは合流し、

薫別*7に押し入り、支配人の吉田伝蔵組の十人を襲った。

そして、海に繋留(けいりゅう)していた飛騨屋の大通丸に乗り込み、水夫十三人を突き殺した。

 

この時、仮船頭の湊の荘蔵(大畑出身)は手傷を負いながらも、船底に隠れて生き延びた。

幸いに忠類の鐘巻(カネマキ)というアイヌに助けられ、槍で刺された傷にウニを塗りつけ食糧にもして、なんとか厚岸(アッケシ)まで逃げ帰った。

標津から山道を逃げた人々は、厚岸から十三里(約50㎞)の楠里*8へ歩いて抜けた。

 

 また、北村伝七山本常蔵は、クナシリの脇乙名(わきおとな)のツキノエが当時エトロフ島に猟に出ていて不在だったため、その女房の抜姑(ばっこ)に助けられ、エトロフ島に渡って九死に一生を得た。

 

 それぞれの請負場所から根室半島の野津釜府*9まで逃げ延びた人々もまた、厚岸にたどり着いた。

 

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源さんが行く30 - こめいがねんど

へ つづく

 

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

第二集の最初から読みたい方は

源さんが行く14 - こめいがねんど

 

*1:シベツ=地名

*2:チュウルイ=地名

*3:コタヌカ=地名

*4:サキムイ=地名

*5:オロモウ=地名

*6:ウェンベツ=地名

*7:クンベツ=地名

*8:くすり=釧路

*9:ノツカマップ=地名