こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く32

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

源さんの記録によるクナシリ・メナシの戦いの最終話になります。

 

 クナシリ・メナシの戦い・其の五

 五月二十日、慈眼丸が釧路から大畑に逃げ戻った。

それで大畑の人々は、いち早く事件の大筋を知ることができた。

キイタップ領の支配頭・松本助右衛門(大畑出身)がこの事件を耳にすると、すぐにメナシ郡の西別*1から忠類へ船でかけつけた。

しかし、毒矢が飛んできて近づけず、何もできずに帰ってきたのだ。

 

二十五日には善知丸から、この状況を飛騨屋に報告するための書簡が木野部沖の漁船に託され、善知丸はそのまま松前に漕ぎ進んで行った。

この事件に巻き込まれた人たちの家族や縁者たちの泣き悲しむ声が、町中にあふれかえった。

 

 この事件で襲われ死傷した大畑の人間は八十二人である。

にもかかわらず松前藩から盛岡藩

「知らせの使者を即刻に出す」という決断が容易に行われなかった。

そこで市中鎮台(田名部代官所)の下役の者たちが、被害を受けた下々の者たちの実情をしたためて目安箱に投じようと、二年の任期を終えて江戸に帰郷する山崎唯八にこれを託した。

 

 南部藩では、アイヌ蜂起と聞き、備頭の小向周右衛門、副司の戸来又兵衛、裨将の田善左衛門ら総計千三百十五人で編成し、出陣命令を下そうとする矢先、平山軍司が急死し、そのため陣営再編の議論が行われ、実際は出陣しなかった。

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  以上、源さんの記録によるクナシリ・メナシの戦いでした。

 

正直なところ、誰が善で、誰が悪なのかわからないです。

飛騨屋の扱いに鬱憤の溜まっていたアイヌの人たち。

飛騨屋任せにしていた松前藩

ツキノエは果たして、アイヌの今後のために一計を案じたのか…。

 

次回はもう少しクナシリ・メナシの戦い

佐藤ミドリ先生が意訳した原始謾筆風土年表の資料編から

別の角度で紹介していきます。

 

 

源さんが行く33 - こめいがねんど

へつづく

 

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

第二集の最初から読みたい方は

源さんが行く14 - こめいがねんど

 

*1:にしべつ=現別海町