こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く31

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

源さんの記録によるクナシリ・メナシの戦いに決着がつきます。

 

 クナシリ・メナシの戦い・其の四

 ツキノエを呼び寄せて、一計を案じた討伐隊は、反乱を起したアイヌたちがノツカマップにやって来たところを捕縛し、牢獄のような囲いの中に閉じ込めた。

 

その後、一人ずつ「お召し」と称して、まず病死したサンキチの息子の歩西(ホニシ)を呼び出し、運上所の土間にひれ伏させ、即座に首をはねてしまった。

 

もう一人の乙名の志登声(シトコエ)も同様に即座に首をはねられた。

 

三人目、歩西の伯父のマメキリの場合は首筋が太く、一気に首を切り落とすことができなかった。

 

彼の断末魔の叫び声が外にもれ、囲いの中にいたアイヌたちは事の次第に気づき、騒ぎ出した。

 

そこで、秋山覚左衛門が威嚇の銃を撃つと囲いを破って逃げ出そうとする者が出て、松井茂兵衛がこれをねらい撃ちした。

新井田孫三郎も裃(かみしも)を着けたまま駆け出し

「逃がしてなるものか」

と銃を構えたが、二人のアイヌに逆襲され、囲いの棒で殴り殺されそうになった。

足軽の広谷孫野丞が横あいから同時に二人のアイヌに切りかかり、新井田は助かった。

しかし、かなりのアイヌに逃げられてしまった。

 

 その時、百人余りの別のアイヌの集団が山向こうからやってくるのが見えた。

 

松井茂兵衛は銃を構え、応戦しようと準備した。

実は彼らは、西蝦夷地・斜里(しゃり)の乙名の倍宇陀蘭賢(フウダランケン)と蝶佐摩(チョウサマ)たちであった。

松前藩討伐隊の加勢に来たのだと知った。

彼らとともに勝利の酒盛りを行った。

 

 討伐隊は松前に戻り、「戦いは楽勝だった」旨を報告した。

立石野(地名)にさらし首にされたのは、

歩西、豆剪、志登声、後宇土寒、血野熊、凶友塾の六人だった。

 

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源さんが行く32 - こめいがねんど

 

へつづく

 

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

第二集の最初から読みたい方は

源さんが行く14 - こめいがねんど