こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く24

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

ロシア人渡来に関する

飛騨屋のクナシリ場所支配人・喜多右衛門

キイタップ支配人・庄次郎の二人が飛騨屋に報告した記録の第四回です。

時は天明五年になります。

 

ロシア人渡来報告書・其の弐の1

 天明五年(1785)、未だにロシア人どもが毎年奥蝦夷地の島々に渡来し、ウルップ島に家居も構えて、

かの国の猟師を連れて着て海中に網を差し、ラッコを捕っていることを

アイヌどもは伝えている。

 

 そんな天明五年、江戸表*1により奥蝦夷地島の検分が行われ、

町普請役の佐藤玄六郎山口鉄五郎庵原弥六青島俊蔵皆川沖左衛門が派遣された。

 翌天明六年早春に松前の福山を出発。

下役の最上徳内をエトロフ島に差し向けた。

それは、このエトロフ島に異国人が居住している様子であること、

クナシリ島に連れ帰れるだけのお金を持って、

同年五月四日、最上徳内はエトロフ島シャルシャムに着岸した。

そして、同島ホンモイに住む長夷*2・ルリシビグの家に滞留するロシア人三人に応対した。

 

 イルクーツク国 シカオントロヘイ・イジュヨ・ソヨフ 三十二歳

 オホーツク大港 イワンウェンレゴー・サスノスコイ  二十八歳

 イジュヨの僕(しもべ) ルチェスコイ国 二ケタ   二十歳程

 

 最上徳内が二人に尋ねた。

「その者たちは何故に日本国の領域に渡来したのだ。」と。

両人の答えは

「1778年夏、交易猟業のためウルップ島へ渡海したところ、

同輩の者たちと争いになり、深山に逃げ込み辛くも命が助かった。

しかし、鉄砲、手道具*3等まですべて奪い取られた。

その後、その者たちは東国へ帰国したので、我々はウルップ島から

エトロフ島に渡ってきたのだ。」という。

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源さんが行く25 - こめいがねんど


へつづく

 

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

第二集の最初から読みたい方は

源さんが行く14 - こめいがねんど

 

*1:幕府

*2:アイヌの酋長

*3:手回りの道具