こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く22

 

f:id:komeikanendo:20190913232457j:plain

どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

ロシア人渡来に関する

飛騨屋のクナシリ場所支配人・喜多右衛門

キイタップ支配人・庄次郎の二人が飛騨屋に報告した記録の第二回です。

 

ロシア人渡来報告書・其の壱の2

 この年(1779)は、天候が不順で海が荒れる日が多かった。

八月になって松前城下から浅利幸兵衛殿、工藤清右衛門殿ほか、足軽などかれこれ三十人ばかりがチクシコエに到着した。

ロシア人との対応を済ませ、米十五俵、酒、たばこ、キセルなどを異国人に進物として差し上げ、

前年異国人から贈られた品々は残らず返したようだ。

異国人たちはほどなく小屋を取り片づけ、八月下旬にチクシコエを出帆して帰国した。

 

しかし後に承(うけたまわ)ると

「日本は、肥前国長崎と申す地のほかは、異国人との交易をしてはならず、国禁(こっきん)である。」

旨を伝え、帰国するように申し渡したのだという。

遠方からの渡来による辛労を察して、米や酒等を贈ってねぎらったのだと聞く。

 

また、クナシリ島のツキノエは〈異国人を連れてきたことは不届き〉の旨、厳しくお叱りを受け、早々にチクシコエからクナシリ島に逃げ帰った。

 

 その後は、当請負場所に異国人が渡来することはないが、

ウルップ、カラフトへは小舟で渡り、漁撈*1をしていると風の便りに承っている。

おおかたは赤い猩々緋(しょうじょうひ)の服を身に着け、

蝦夷人は彼らのことを

「フレシャム」(赤人)、

我々は

「赤狄」(あかえぞ)

と呼んでいる。

 

 この度のロシア人の渡来で、両場所合わせて二百六十人分、

二年越しの費(まかない)は大変な額になる。

 

 異国船騒動で、アイヌも寄りつかず、交易もならなかった。

支配人たちが寄り集まって試算したところ、

今回の飛騨屋様の三場所でこうむった損失は、

ざっと金三千八百両にはなると、一同、驚いている。

 

 よって、後日のためにと、この始末書を記しておく。

 

安永九年(1780)

クナシリ 支配人  喜多右衛門

キイタップ支配人  庄 治 郎

f:id:komeikanendo:20190926000505j:plain


 

源さんが行く23 - こめいがねんど

 へつづく

 

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

第二集の最初から読みたい方は

源さんが行く14 - こめいがねんど

 

*1:ぎょろう=漁業