よもぎたむらができるまで12
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
蝦夷の反乱1
720年(養老4年) 陸奥国北部(宮城県大崎平野周辺)の蝦夷、関東地方などからの大規模な移民に反発し、按察使上毛野(あぜちかみつけぬの)広人を殺害
この戦乱のあと大和朝廷は、当時陸奥国から切り離されていた石城(いわき)・石背(いわせ)両国(福島県域および宮城県南部)の陸奥への再統合、
大胆な減税による民力回復、
これらに駐在する兵士を坂東諸国から派遣する鎮兵制の創設、
鎮兵を統括する鎮守将軍以下の鎮官の設置
など大胆な改革が行われます。
724年(神亀元年) 陸奥海道蝦夷(北上川下流域から三陸地方南部にかけての蝦夷)が反乱。陸奥国司を殺害
767年(神護景雲元年) 玉造柵(大崎市古川名生舘)から約20キロ北上した場所に伊治(これはり)城(栗原市築館城生野)新設
今回はここまでとします。
720年から767年の47年間、大和朝廷は自分らのエリアを北上しながら拡大していき、自分らの住む場所を奪われて、しかも強制的に和人化させられることに不満を持った蝦夷たちは抵抗を繰り返します。
しかしこれまでの47年間は、あくまでもこれから起る38年戦争の入口です。
それだけ蝦夷は理不尽な朝廷のやり方に納得できなかったのだと思います。
(参考引用文献/佐藤信編:古代史講義【戦乱篇】)
へつづく
※業務連絡です。
よもぎたむらができるまで04~10を連続で読めるようにリンクしました。
続けて読みたい方は是非ご利用ください。
よもぎたむらができるまで11
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
今回は日本(和人)が領地拡大のために、本格的に東北(蝦夷)まで進攻してくるまでを簡単に進めていきたいと思います。
和人と朝鮮と蝦夷
660年 朝鮮の新羅(しらぎ)が強大化し、唐と組んで百済(くだら)を滅亡
663年 百済の遺臣が日本に救援を求めてきたので、天皇・皇太子は筑紫(福岡)に下り、大軍を朝鮮に派遣するも、白村江(はくすきのえ/朝鮮半島錦江河口)にて唐・新羅連合軍に大敗。朝鮮での権益を完全に失う。
大宰府防衛のために水城をつくるなどして、九州の防衛に力を注ぐ
665年 唐・新羅と国交回復
667年 近江大津(滋賀)に都を移す
673年 壬申の乱によって天智天皇の息子大友皇子(おおとものみこ)を倒した
飛鳥浄御原宮(奈良)で即位
この頃(7世紀)の北海道地方は稲作が困難な地域のため、続縄文文化のままのようです。
たぶん津軽(半島)・下北地方は似たような気候から同じような文化だったと言われています。
ただ現在も下北では発掘調査が続いていますので、発掘されるものによっては今後、歴史が変わるかもしてません。
8世紀~13世紀まで、北海道は擦文文化になります。
これは本土の土師器(はじき)*1を真似て作られた、表面にヘラで擦ってつけた独特の文様がある土器が出土したことから命名されました。
鉄製品が使われるようになりますが、そのほとんどが本土との交易で入手したものらしく、製鉄の能力はなかったようです。
こちらも現在発掘調査をしていて、くつがえされるかもしれません。
天武天皇は、天皇を中心とする国家体制をつくっていき、天皇の権力を歴史的にも、理念的にも基礎づけて、みずからを「明神(あきつかみ)」と呼び、神格化もみられるようになってきます。
690年 天武天皇のあとを皇后である持統天皇が即位し、本格的な都城である藤原京(奈良)を造営します。
また、持統天皇ははじめて太上天皇*2として政治をおこないました。
律令体制
大化改新は、地方の小豪族の台頭とそれにともなう中央における氏姓制度*3の動揺の事態に応じるため、また唐・新羅のような外圧に対抗するために行われた政治改革だったため、
地方に対する支配力を強化し、中央豪族を貴族化することが必要でした。
唐の制度を取り入れて、 天皇を中心とする統一国家をつくるための基礎となったのが律令です。
この体制のため、このあと増々、蝦夷の領土は少なくなっていき、和人化していくことになるわけです。
(参考引用文献/いっきに学び直す日本史:教養編・井沢元彦「逆説の日本史17」)
へつづく
素材としての似顔絵02
どうも、しょうさんです。
今週の素材としての似顔絵です。
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「欲しいものは自分で作ればいい。」
五郎さんの生き方は理想です。
でも人はすぐ楽な方に向いてしまいます。
「文明の進化は人類を堕落させるためにできた。」
と、なんかの雑誌の企画で五郎さんは答えています。
今、五郎さんが私と同じぐらいの年だったら、
たぶんブログを始めたいと思ったとしたら
パソコンの仕組みから勉強して、パソコンを組み立てて
プログラムをおぼえてから
ブログを立ち上げてはじめるんでしょうね。
五郎さんの生き方は理想です。
カブトムシ
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どうも、しょうさんです。
今年も暑いですね。
青森はもうそろそろ夏休みも終わる時期ですが、
そんな夏休みのエピソードをひとつ。
小学生のころ、私は生まれたときからインドア派だったので、夏休み中もほとんど家に閉じこもって、プラモデルを作ったり、漫画を描いたりしていました。
逆に2歳年下の弟は、毎日のように海に泳ぎに行ったり、山に昆虫を捕まえに行ったりと、かなりのアウトドア派でした。
夏休みのある日、弟は近所の友達たちと朝早くから山に行って、昼ちょっと前に帰ってきて、何かのかたまりをくるんだ新聞紙を部屋の片隅においてました。
昆虫に興味のない私は、弟が何かを興奮しながら必死に伝えていましたが、右から左で、全く頭に入ってきませんでした。
「ふぅ~ん。」
とだけ答えて、目の前の漫画のこのあとのストーリー展開を考えるのに集中していました。
両親は共働きで、母は4時過ぎに帰ってきます。
2階にある僕らの部屋に母が上がってくると、
僕ら兄弟はそれまでダラダラと好きなことをして遊んでいたことをなかったことのように机に向かって、勉強をしているふりをします。
「おかえりなさい。」
いい子ぶって、兄弟はあいさつします。
「…これなんだ?」
弟が今日、山に昆虫採集に行ったことを知らない母は、おもむろに部屋の隅にある新聞紙をとりあげました。
中を見た瞬間
「ギャー‼」
と言って、高校時代卓球部のエースで、全国大会でもかなりの成績を残したらしいその反射神経で、近くの窓を開けて、瞬時に新聞紙ごと放り投げました。
弟にしたらたまったもんじゃありません。
「なにすんだよ!あれカブトムシの幼虫だぞ‼」
と言って、泣き叫びながら部屋を出ていき、新聞紙が放り投げられた場所に走っていきました。
「イモムシのかだまりにしか見えながった…。」
母はポツンとひとこと言って弟のあとを追いました。
カブトムシの幼虫8体は、新聞紙にくるまれた状態だったので、全員無事だったようです。
そのあと母と弟はふたりで使ってないプランターに土を入れて、
そのなかに幼虫をはなしてやって飼育していました。
当時は山の畑で使っていた藁のなかに夏の時期は、あまるほどカブトムシの幼虫がいたそうです。
弟が行ったポイント箇所は人気スポットだったらしく、もっと早く行ってれば20体は採れたと弟は言っていました。
ちなみに家で育てたカブトムシの幼虫が何体成虫になったかは、
私、興味がないのでわかりません。
NEBUTA
どうも、しょうさんです。
今年もありがたいことに、青森市のねぶた祭りは好天に恵まれたこともあり大盛況だったようです。
ねぶたってなんですか?
青森ねぶた祭のホームページには、
青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれていますが、その起源は定かではありません。
奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられています。
初期のねぶたの形態は「七夕祭」であったのでしょう。そこに登場する練り物の中心が「ねぶた」と呼ばれる「灯籠」であり、七夕祭は7月7日の夜に穢れ(けがれ)を川や海に流す、禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流して無病息災を祈りました。これが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れています。
「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民俗語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられています。
と、あります。(青森ねぶた祭HPより引用)
まあ、そうなのか…。となりますが、
数年前まで、その年の最高の作品に与えられる田村麿賞というものがありました。
(以下も青森ねぶた祭HPからの引用です。)
「田村麿賞」から「ねぶた大賞」へ
昭和三十七年制定の、「田村麿賞」の名称が平成七年度より改称されました。坂上田村麿が蝦夷征伐のため現在の青森県城に遠征した史実やその際にねぶたを用いたことが立証できないこと、田村麿と蝦夷征伐を結びつけてのネーミングは、民族の人権上からふさわしくないこと、国の重要無形民俗文化財指定にあたっても「ねむり流し」の習俗と明記されていること。また、市民意識の変革 など、各界各層の意見、世論をふまえた結果、平成七年度より、青森ねぶたの最高賞は「ねぶた大賞」となりました。
何が言いたいのかというと、前々回のよもぎたむらができるまで10 に使用するイラストの材料として阿倍比羅夫のイメージ画をネットで検索したとき、真っ先にねぶたの阿倍比羅夫の作品が出てきたのが気になりました。
正直なところ、
青森市民でありながら、
そんなにねぶたに興味がないのも問題なんですが、
いろいろこうして歴史を調べていくと、
そういった矛盾にぶつかります。
「え?青森市民は蝦夷なのに、なんで和人側にたってお祭りをして、しかも最高の賞が、敵である田村麻呂なの?」
みたいな。
もちろん、ねぶた祭を最初に始めたのはもっと後の和人化してしまったころ*1でしょうから、仕方ないと言えば仕方ないです。
たぶん平成7年に「ねぶた大賞」に変更したのも、私のようなクレームがあったからだと思います。
なにを祭りにクレームつけてんだ、めんどくせぇ。
と言われそうなのでこの辺で止めときます。
結局、楽しければいいですから。
ちなみに、どうでもいいことですが、中学の時、ソフトテニス部に所属してまして、
打ち方がまるでその容姿だということで、ねぶたというあだ名でした。
原始謾筆風土年表を解読する会
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
先日、母ちゃんと大畑公民館で月に一回行われる、原始謾筆風土年表を解読する会の講座にはじめて参加させていただきました。
意訳をされてる佐藤ミドリ先生や毎回のように受講せれている参加者の方々の原始謾筆風土年表に対する熱い想いや大畑愛が伝わってくる、ものすごく濃い貴重な時間でした。
ありがたいことにみなさんこめいがねんどを見ていただいてて、
佐藤ミドリ先生をはじめ、とにかく再開してくれと言ってくださるので、
次週から源さんが行くシリーズを再開させていただきたいとおもいます。
いろいろと悩みましたが、こめいがねんどで原始謾筆風土年表を少しでも広めていけるなら、こんなにうれしいことはありません。
とにかくみなさんをがっかりさせないような、おもしろいものにしていきますので、今後ともよろしくお願いいたします‼
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よもぎたむらができるまで10
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
時代は645年の大化改新のあとからになります。
蝦夷(えみし・えぞ)
蝦夷とはいろいろな説がありますが、「野蛮人」という意味を込めた差別語が一般的です。
読み方も蝦夷と書いてエミシと読んだり、エゾと読んだりしますが、
古代・中世では政府に従わない、中央に住んでいる日本人に対し、辺境に住んでいる日本人をエミシと呼び
中世以後(鎌倉時代後期)は北海道のことを蝦夷が島、蝦夷地と文献資料上に書かれていることからエゾと呼ぶようです。
「日本書紀」には659年、遣唐使と唐の高宗(皇帝)の問答が載っていて、
大和朝廷に毎年入朝してくる熟蝦夷(にきえみし。おとなしいエミシ)が最も近くにいて、麁蝦夷(あらえみし。荒々しいエミシ)がそれよりも遠く、最遠方に都加留(つがる)があると説明しています。
都加留(津軽)が固有名をあげられるほどの有力集団として存在していたようです。
飛鳥時代ころには、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に住んでいたようです。
658年、大和政権が支配領地を拡大するために、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が水軍180叟を率いて、秋田・津軽方面の蝦夷を討ち、さらに軍を進めたと伝えられています。
相変わらず、和人は一方的です。
蝦夷はいきなり和人に攻められて、配下につけられます。
そうやって日本は日本として大きくなっていくんでしょうね。
へつづく
大間鉄道のカモシカ
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
大畑に遊びに行った時の出来事をひとつ。
去年の話ですが、ゴールデンウイークのころ、大畑に遊びに行きました。
大畑桜ロードが満開で、とてもきれいでした。
ジジの家についたのが昼頃だったのでみんなで昼ご飯を食べたあと、父ちゃんとふたりで散歩に出かけました。
近所にある大間鉄道アーチ橋の跡です。
僕が生まれる前からあったので、そこにある当たり前のものなんだろうなと、特に気にもしないで今まで過ごしていましたが、
このまえジジからはじめてこの大間鉄道が作られた経緯を聞かされて、チョットびっくりしました。
その経緯を今お話しするのは止めておきます。
あまりにも国際問題に発展しそうな内容だったので、時間がたって、このぐらいのタイミングだったらいいかな?というときがきたら小出しに紹介します。
この日は、僕と父ちゃんはこのアーチ橋の下を通った先にあるダムを見に行きました。
キレイに整備されたダムでした。素敵なところです。
事件はその帰り道に起きます。
なにげなくアーチ橋をくぐろうとしたとき、
「うおっ!」
橋の上にカモシカがいるではありませんか。
そのカモシカはこのアーチ橋の主のような堂々としたいで立ちで僕らを睨んでいました。
家に帰ってからジジに話すと
「ああ、よくいる」
と、驚きもしませんでした。
この辺では当たり前の光景のようです。
ビックリです。
素材としての似顔絵01
どうも、しょうさんです。
いろいろとデッサン修業もしまして、似顔絵を描いてみることにしました。
(あくまでもねんど制作の修業としてですが。)
第一回目は
言わずと知れた、アメリカの大俳優です。
海外の俳優の中では一番好きな方です。
イージーライダー、カッコーの巣の上で、シャイニング、恋愛小説家、最高の人生の見つけ方 等々
出演した作品をあげたらきりがないですが、私がその存在感に圧倒されたのが
「ア・フュー・グッドメン」で演じたネイサン大佐でした。
ストーリーは米海軍基地で起こった海兵隊の殺害にまつわる話なんですが、
途中から出てくるジャック・ニコルソンの威圧感は、後ろ姿からの登場ですが
ほぼ出オチです。
映画館で観たのですが、その圧倒的な存在に思わず吹いてしまいました。
人間ってあまりに凄いものを目の前にすると吹いてしまうもんなんですね。
是非、映画を観て確認してみてください。