よもぎたむらができるまで13
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
774年(宝亀5年)7月 陸奥国の海道蝦夷が桃生城を襲撃して西郭を破りました。
「三十八年戦争」のはじまりです。
蝦夷の反乱2
770年(宝亀元年) それまで国家に服属していた蝦夷の宇漢迷公宇屈派宇(うかんめのきみうくつはう)が一族を率いて突然「賊地」に戻り、城柵襲撃の予告をしました。
これを聞いた陸奥按察使*1、大伴駿河麻呂は光仁天皇に征夷実施の許可を得ます。
しかし桃生城欠落後、駿河麻呂は征夷の撤回を申し出ました。
現地の官人たちには征夷に踏み切ることへの迷いがあり、戦火が拡大することを懸念していたそうです。
結局、駿河麻呂は陸奥国遠山村(宮城県登米市付近)を制圧し反乱は一度は鎮まりますが、戦火はやはり急速に広まっていきます。
776年(宝亀7年)4月 陸奥国司は2万人の兵で山道・海道蝦夷を攻撃
出羽国(山形県と秋田県)も雄勝村から4000人の兵で山道蝦夷を攻撃。
しかし出羽の官軍は志和村(盛岡市付近)の蝦夷の攻撃に遭って苦戦。
11月 再度陸奥国は胆沢の賊を攻撃。
もう東北は戦国時代でぐっちゃぐちゃです。
アッチが出ればコッチも引かない。
そんな状況ですね。
780年(宝亀11年)春 宝亀の戦のさなかに死去した駿河麻呂の後任として按察使となった紀広純(きのひろずみ)は
伊治城の北方に覚鱉城(かくべつじょう)という新たな城柵を造る計画のため、
上治郡の大領、伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)や牡鹿郡の大領、道嶋大楯(みちしまのおおたて)らを引き連れて伊治城に入ります。
呰麻呂は伊治城付近に地盤を持つ蝦夷系豪族でしたが、山道蝦夷との戦いで、官軍側として功績をあげ、上治群大領(長官)になった人物です。
その呰麻呂が反乱を起します。
彼は普段から夷俘*2と侮蔑していた道嶋大楯を殺害し、配下の蝦夷とともに広純を殺害。
その後南下して、多賀城を襲い、兵器・粮米を略奪後火を放ちます。
政府は藤原継縄(つぐただ)を征東大使に任命しますが、
なかなか軍事行動を開始しないため、
しびれをきらした光仁天皇はあらためて藤原小黒麻呂(おぐろまろ)を大使に任命しますが、
こちらも征討の延期を申請し、とうとう翌年5月に軍を解散してしまいます。
現地はもはや容易に軍を動かせる状況ではなかったようです。
呰麻呂の事件とともに、吉弥候伊佐西古(きみこのいさせこ)もまた離反し征東使から賊中の頭となり、
差別を受けつつ服従・協力を余儀なくされた境界領域の蝦夷たちも離反しました。
しかも反乱に協力した者の中には、蝦夷だけでなく移民系の人たちもいたということです。
政府の強引なやり方は、ますます事態を深刻化させていきます。
蝦夷たちは新しい国を作ろうと必死っだったんだと思います。
「三十八年戦争」はまだまだつづきます。
へつづく
(参考引用文献/佐藤信編「古代史講義【戦乱篇】」)