こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

よもぎたむらができるまで12

 

どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

奈良時代蝦夷大和朝廷の抗争が始まります。

蝦夷の反乱1

720年養老4年) 陸奥国北部宮城県大崎平野周辺)の蝦夷、関東地方などからの大規模な移民に反発し、按察使上毛野(あぜちかみつけぬの)広人を殺害

この戦乱のあと大和朝廷は、当時陸奥国から切り離されていた石城(いわき)・石背(いわせ)両国(福島県域および宮城県南部)の陸奥への再統合、

大胆な減税による民力回復、

多賀柵(のちの多賀城)と大崎平野の城柵の一体的整備、

これらに駐在する兵士を坂東諸国から派遣する鎮兵制の創設、

鎮兵を統括する鎮守将軍以下の鎮官の設置

など大胆な改革が行われます。

 

 724年神亀元年) 陸奥海道蝦夷北上川下流域から三陸地方南部にかけての蝦夷)が反乱。陸奥国を殺害

 

759年天平宝字3年) 雄勝秋田県横手市造営

陸奥海道蝦夷への備えとして桃生城石巻市飯野)建設

 

767年神護景雲元年) 玉造柵(大崎市古川名生舘)から約20キロ北上した場所に伊治(これはり)栗原市築館城生野)新設

f:id:komeikanendo:20190819230528j:plain

ヤマト君とエミシ君2

今回はここまでとします。

720年から767年の47年間、大和朝廷は自分らのエリアを北上しながら拡大していき、自分らの住む場所を奪われて、しかも強制的に和人化させられることに不満を持った蝦夷たちは抵抗を繰り返します。

しかしこれまでの47年間は、あくまでもこれから起る38年戦争の入口です。

それだけ蝦夷は理不尽な朝廷のやり方に納得できなかったのだと思います。

 

(参考引用文献/佐藤信編:古代史講義【戦乱篇】)

 

よもぎたむらができるまで13

へつづく

 

※業務連絡です。

よもぎたむらができるまで04~10を連続で読めるようにリンクしました。

続けて読みたい方は是非ご利用ください。