よもぎたむらができるまで11
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
今回は日本(和人)が領地拡大のために、本格的に東北(蝦夷)まで進攻してくるまでを簡単に進めていきたいと思います。
和人と朝鮮と蝦夷
660年 朝鮮の新羅(しらぎ)が強大化し、唐と組んで百済(くだら)を滅亡
663年 百済の遺臣が日本に救援を求めてきたので、天皇・皇太子は筑紫(福岡)に下り、大軍を朝鮮に派遣するも、白村江(はくすきのえ/朝鮮半島錦江河口)にて唐・新羅連合軍に大敗。朝鮮での権益を完全に失う。
大宰府防衛のために水城をつくるなどして、九州の防衛に力を注ぐ
665年 唐・新羅と国交回復
667年 近江大津(滋賀)に都を移す
673年 壬申の乱によって天智天皇の息子大友皇子(おおとものみこ)を倒した
飛鳥浄御原宮(奈良)で即位
この頃(7世紀)の北海道地方は稲作が困難な地域のため、続縄文文化のままのようです。
たぶん津軽(半島)・下北地方は似たような気候から同じような文化だったと言われています。
ただ現在も下北では発掘調査が続いていますので、発掘されるものによっては今後、歴史が変わるかもしてません。
8世紀~13世紀まで、北海道は擦文文化になります。
これは本土の土師器(はじき)*1を真似て作られた、表面にヘラで擦ってつけた独特の文様がある土器が出土したことから命名されました。
鉄製品が使われるようになりますが、そのほとんどが本土との交易で入手したものらしく、製鉄の能力はなかったようです。
こちらも現在発掘調査をしていて、くつがえされるかもしれません。
天武天皇は、天皇を中心とする国家体制をつくっていき、天皇の権力を歴史的にも、理念的にも基礎づけて、みずからを「明神(あきつかみ)」と呼び、神格化もみられるようになってきます。
690年 天武天皇のあとを皇后である持統天皇が即位し、本格的な都城である藤原京(奈良)を造営します。
また、持統天皇ははじめて太上天皇*2として政治をおこないました。
律令体制
大化改新は、地方の小豪族の台頭とそれにともなう中央における氏姓制度*3の動揺の事態に応じるため、また唐・新羅のような外圧に対抗するために行われた政治改革だったため、
地方に対する支配力を強化し、中央豪族を貴族化することが必要でした。
唐の制度を取り入れて、 天皇を中心とする統一国家をつくるための基礎となったのが律令です。
この体制のため、このあと増々、蝦夷の領土は少なくなっていき、和人化していくことになるわけです。
(参考引用文献/いっきに学び直す日本史:教養編・井沢元彦「逆説の日本史17」)
へつづく