よもぎたむらができるまで35
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
源平合戦に話は進んで行きます。
奥州藤原氏・其の九
1180年二月、高倉帝が譲位します。
そして、新しい帝は平清盛の娘、徳子が産んだ子、安徳天皇でした。
全ては清盛の筋書き通りです。
幼い安徳天皇は操り人形でしかなく、実権は清盛が握っていました。
それから二か月後、法皇の子である以仁王(もちひとおう)が、諸国の源氏に平氏討伐の令旨*1を下します。
法皇の勅令に比べれば重みに欠けますが、これで戦の大義を源氏が得ることになります。
五月、以仁王が源頼政(よりまさ)と共に打倒平氏の旗を掲げました。
しかし平氏の反撃が素早すぎて、以仁王のもとに集まったのはわずか千余りの兵。
以仁王と頼政は三井寺に立て籠り、延暦寺に決起を促しますが、増兵は動きません。
新たな援軍を募ろうと、奈良の興福寺へと向かう途中、平氏の急追撃によって、宇治川を挟んで決戦となってしまいます。
多勢に無勢、結果は惨憺たるものでした。
平氏に包囲された頼政は平等院で自刃し、以仁王も負け戦のどさくさの中、雑兵に討ち取られてしまいます。
この顛末は国中に伝わりますが、以仁王の死だけは固く伏せられました。
法皇の子を殺したのを非難されるのを避けるためです。
重くても遠流処分に止めるつもりが、思いがけない結果となってしまいました。
源頼朝に義経が合流するまで、平氏と源氏の争乱に巻き込まれないよう秀衡は苦心していました。
1181年、秀衡は陸奥守に任命されます。
高橋克彦氏は自身の著「炎立つ/光彩楽土」のなかでこう書いています。
七月に治承から養和と改められた直後の八月。
平泉の秀衡に内裏から思いがけぬ任官が命じられた。
すでに鎮守府将軍を務め上げ、従五位下の貴族に列せられていた秀衡にすれば、わずかの昇進でしかなかったが、階位よりも陸奥守という役職の持つ意味は大きかった。
内裏が陸奥の直接統治を公然と認めたこととなる。
鎮守府将軍は一時的な役職に過ぎないが、陸奥守となると国守の中でも上位に数えられる大任である。
それに蝦夷が任じられるなど前代未聞のことでもあった。
公卿(くげ)らの多くはその任官を嘆き、世も末だと呪詛の言葉を漏らした。
それほどに秀衡の陸奥守任官は衝撃だったと言える。
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10