よもぎたむらができるまで34
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
三代目・秀衡(ひでひら)と中央政権の話を続けます。
奥州藤原氏・其の八
秀衡が義経を受け入れた真意は何だったのでしょうか?
エミシである秀衡には、平氏や源氏のように自分が旗頭になって武家政治をやっていくのは無理だとわかっていました。
先を読んでいた秀衡は、中央政権の頭に義経を据え、背後から操るやり方を狙っていたのではないかと、著者の高橋克彦氏は言っています。
これは鎌倉幕府における執権・北条氏と同じ発想で、北条氏も将軍を飾り物にして、自分たちは執権として実権を握っていました。
平氏から再三にわたって源氏討伐の援軍を要求されても断り続けたのは、源氏が勝った後に義経を棟梁に据えようという思惑あったからだろうと思われます。
治承三年(1179年)、後白河法皇が清盛によって鳥羽殿へ幽閉されます。
すでに法王の権力は二年前から失われていました。
平氏打倒の陰謀を巡らせていたのか発覚したからでした。
法王は罪を免れたものの、陰謀に加わった者たちは死罪または追放となりました。
以来、法皇もおとなしく暮らしていましたが、清盛の長男・重盛(しげもり)が病で亡くなると、 それを契機にまたも水面下で動き始めます。
平氏を支えていたのは亡くなった重盛でした。
その要が失われれば平氏の求心力が落ちるだろうと見たのでしょう。
陰謀を察知した清盛は、関白・藤原基房(もとふさ)以下三十九人の側近を解任、法皇自身も幽閉するという強硬手段に出ました。
この事件は平氏への不満が増大したことよりも、法皇すら幽閉できる力を平氏が持っていることを知らしめる結果となりました。
その頃、伊豆に流されていた源頼朝は北条時政の庇護のもとにいました。
平氏打倒のチャンスをうかがっていた頼朝は、平泉の曖昧な態度に苛立っていました。
平泉が平氏に付けば、正面の平氏と背後の平泉の両方を相手にしなくてはならなくなります。
そもそも源氏の味方は諸国に散らばっていました。
その力を一つにまとめなければ、とても平氏に手向かえません。
一方、平泉は十五万とも十七万とも言われる騎馬軍を抱えていました。
その気になれば一国でも平氏と戦ができる状態です。
平氏を滅ぼす気があるなら、秀衡が源氏の支援をすると表明すればいい。
それで諸国の源氏が一斉に立ち上がれる。
ですが、秀衡はどちらの味方をするか態度をはっきりさせません。
そのくせ弟の義経を大事に保護しているのです。
頼朝からしてみたら、源氏と平氏を戦わせて、どちらが優勢かを見定めてから、義経を旗印に使おうとしているとしか思えませんでした。
へつづく
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