よもぎたむらができるまで33
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
奥州藤原氏の物語は、二代目・基衡(もとひら)、三代目・秀衡(ひでひら)へと進んで行きます。
奥州藤原氏・其の七
清衡(きよひら)が平泉に進出した頃というのは、延暦寺や東大寺などの寺社勢力が、源氏や平氏といった新興勢力の軍事貴族と激しく対立していて、朝廷が対処に苦しんでいる時期でした。
東北にかまっている余裕がなかったのです。
清衡は平泉を拠点に、浄土思想に基づいた理想の国を東北に築こうとしました。
平泉を都にした後、平穏な余生を約三十年過ごして、七十三歳で没します。
二代目・基衡は毛越寺を建立したことで知れてています。
源氏による平泉征服の後に焼失するなどして、現在は創建当時の威容を知ることができませんが、中尊寺を凌ぐ豪奢な伽藍だったと伝えられています。
毛越寺の造営は三代目・秀衡に受け継がれて、一段と壮大なものになっていきます。
秀衡が家督を継いだのは、平氏が朝廷を手中に収めて権力を握る少し前でした。
百年以上も平穏を保ち、帝への忠誠を貫いた平泉に対して、朝廷の扱いはあまりにも冷たいものでした。
エミシへの蔑みが理由なら、平泉に頼るなと言いたくなるくらい、黄金や漆、馬や毛皮まで献上させておきながら蔑視をやめようとしなかったそうです。
欲しければ自分たちで陸奥を直接支配すればいいのに、それをしないのは平泉の力をよくわかっているためでした。
それなら、せめて秀衡にだけは敬意を払うべきだと思うのですが、秀衡に与えられたのは従五位下という低い階位でした。
三代前の祖先・藤原経清と同じ位です
つまり、百年以上の忠誠の末に、もともとの階位を取り戻しただけでした。
秀衡は陸奥守・藤原基成(もとなり)の娘と婚姻関係を結びます。
この頃の平泉は、平安京に匹敵する国内有数の大都市に発展していました。
1170年、秀衡は鎮守府将軍に任じられて、奥六郡を朝廷公認の支配者となります。
その数年後、鞍馬山に預けられていた源義経が自らの意思で脱走して、秀衡のもとにやってきます。
そして、六年あまり義経は平泉で過ごしました。
へつづく
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