よもぎたむらができるまで17
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
前回は蝦夷について説明しましたが、
今回は俘囚について、東北人の主張をさせていただきます。
次に朝廷と蝦夷の大きな戦いとなる、
前九年合戦・後三年合戦にも俘囚という存在が大きく関わってきますので、
ここは是非読んでもらえたらと思います。
俘囚(ふしゅう)
陸奥・出羽の蝦夷(えみし)のうち、朝廷の支配に属するようになった人たちのことです。
俘囚には二種類あって、
朝廷の領土拡大によって支配下についた人たちと、
捕虜となって国内に移配された人たちがいます。
移配俘囚
7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争で、大和へ帰服した蝦夷男女が集団で強制移住させられた人たちのこと。
移住させた目的としては、同族から裏切り者として、報復や侵略される危険性があったため、命の安全と生活の安定化を望んだことが主な理由となっています。
天皇の徳政に感化させる目的も朝廷にはあったようです。
移住先は九州までの全国におよんだそうです。
朝廷は国司*1に俘囚専当を兼任させて、俘囚の監督と教育・保護養育に当たらせました。
俘囚は、定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料という名目で国司から食料を支給され、庸・調の税*2が免除されました。
しかし実際は移配俘囚が安住先で自活することはなく、俘囚料の給付を受け続けました。
生活は、狩猟と武芸訓錬が主で一般の公民百姓とは大きく異なっていました。
弘仁三年(812年)、朝廷は国司に対し、俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、
俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える命令を出します。
9世紀になる頃には、移配俘囚は国内の治安維持のための主要な軍事力として位置づけられていました。
俘囚の狩猟技術や武芸技術は、乗馬と騎射を中心とするもので、当時出始めていた武士たちへ大きな影響を与えました。
しかし、俘囚による処遇改善要求が原因で、何度か騒乱*3を起こし、
こうした事態に頭を悩ませた朝廷は寛平九年(897年)、移配俘囚を奥羽へ送還する政策を打ち出します。
これにより全国へ移配されていた俘囚は奥羽へ還住することになります。
奥羽俘囚
陸奥・出羽にとどまった俘囚は、同じ地域の朝廷派の人々と異なり、租税を免除されていたと考えられています。
彼らは陸奥・出羽の国衙*4から食料と布を与えられる代わりに、服従を誓い、特産物を貢いでいました。
俘囚という地位は、辺境の人を下位に置こうとする朝廷の態度が作ったものですが、
俘囚たちは無税の条件を基盤に、交易などを利用して大きな力を得るようになっていきます。
以上ウィキペディアからずら~っと載せました。
なんか、田舎者を捕まえて、
「兄ちゃん、自衛隊に入らない?」
と言ってるようなもんじゃないですか。
悔しかっただろうなアテルイ。
そんなアテルイの無念を晴らすべく
再度、東北人は立ち上がります。
次回は、前九年合戦・後三年合戦へつなげられるかな?
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10