よもぎたむらができるまで15
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
三十八年戦争のクライマックスです。
蝦夷の反乱4
790年(延暦9年)
桓武天皇はアテルイら蝦夷に敗れた後すぐに次の征夷の準備にとりかかります。
征東使(のちに征夷使と改称)らと現地の国司等の兼務による指揮系統の一本化。
十万人の軍士調達をはじめとする大幅な軍備の増強。
奥地の蝦夷の懐柔*1による切り崩しなどが周到に行われていきます。
このときはじめて征東使幹部に名を連ねたのが、坂上田村麻呂(34歳/近衛少将)です。
794年(延暦13年)六月初め頃、この戦は終了します。
十月二十八日に届いた戦勝報告では
首457級、捕虜150人、馬85斤、落75処とあり、
首89級だった前回と比べて、5倍もの多くの蝦夷が殺されました。
身柄を拘束された蝦夷の坂東(茨城県南西部)以西の諸国への移配も本格的に行われ始めます。
796年(延暦15年)
田村麻呂は、近衛少将のまま陸奥按察使と陸奥守、鎮守将軍を兼ねて
奥羽を束ねる最高行政官として次の征夷に向けた地ならしに着手。
翌年十一月には征夷大将軍に命じられます。
801年(延暦20年)二月
田村麻呂は前回の半分以下の四万人の兵士で、胆沢・志波方面の蝦夷に勝利。
蝦夷側はこの敗戦により
アテルイと磐具公母礼(もれ)が500人の賊種を率いて降伏を申し入れします。
田村麻呂はアテルイらの申し出を受け、彼らを率いて上京します。
朝廷では百官が「蝦夷を平らぐ」ことを祝ったそうです。
田村麻呂は嘆願しましたが通らず、
アテルイらが処刑され、戦いのころから造営していた胆沢城が完成します。
その北方に続いて造られたのが一辺840メートルという東北最大級の城柵、志波城(岩手県盛岡市)
同時期に造営された払田柵跡など
次なる征夷のために着々と準備が進められます。
しかし
805年(延暦24年)十二月
桓武天皇は参議の藤原緒嗣(おつぐ)、菅野真道(すがのまみち)に
「天下の徳政」を議論させ、軍事と造作の停止を決定。
征夷の計画は消滅してしまいます。
その後811年(弘仁2年)
文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)と俘囚*2軍により爾薩体村(にさつたいむら=岩手県二戸市付近)、弊伊村(岩手県宮古市周辺)まで北上しますが、ここまでです。
つまり、朝廷の支配領域の拡大は現在の岩手県と秋田県のそれぞれ中部付近を北限として停止したことになります。
エッ⁈青森は?
そうなんです。
平安時代に入ったこの頃
青森方面はまだ蝦夷のままなんです。
ショッキングな事実を報告したところで
次回
につづきます。
(参考引用文献/佐藤 信編「古代史講義:戦乱篇」)
業務連絡です。
蓬田村と大畑町にまつわる歴史もかなりたまってきましたので、
戻って読み直したい人のためにリンクして最初から読めるようにしました。
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
ついでに読者になってもらえたらありがたいです。