よもぎたむらができるまで14
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
政府と蝦夷の戦いはさらに泥沼化していきます。
蝦夷の反乱3
784年(延暦3年) 大伴家持(やかもち)を持節征東将軍として征夷軍を立ち上げますが、
家持の死去や、藤原種継暗殺事件などがあり、自然消滅。
786年(延暦5年) 本格的に準備を始める
788年(延暦7年) 将軍・紀古佐美(きのこさみ)以下の征東使を任命
789年(延暦8年)3月 多賀城に集結した坂東諸国*1の歩兵騎兵5万余の一部を北上して、衣川の北側(岩手県奥州市衣川)に軍営を敷きます。
しかし今回もなかなか行動をはじめません。
しびれをきらした桓武天皇の叱責を受けてようやく動き出し、
3つの小部隊が北上川の東西両岸から河東の蝦夷の拠点を挟撃する作戦に出ます。
そこに登場するのが「三十八年戦争」蝦夷側の最大のヒーローアテルイ(阿弖流為)です。
川の東に渡った官軍の一部隊はアテルイの居場所を攻め、逃げる蝦夷軍を追って進軍します。
しかしそこで山中に隠れていた蝦夷の別部隊の急襲にあい形勢逆転。
西岸を北上してきた別部隊が蝦夷軍に渡河を遮られるなか、
川東の軍は総崩れとなり、
兵士たちは北上川に飛び込み1036人もの溺死者を出しました。
アテルイらによる巧みなゲリラ作戦の勝利です。
古佐美はそのあと桓武天皇に対し、胆沢をすでに制圧し、子波(しわ・志波=盛岡市付近)や和我(わが=北上市付近)へさらに進軍するには兵量が不足していることを理由として軍の解散を報告し事後承諾を求めます。
実態とかけ離れた報告に桓武天皇は激怒します。
古佐美は別部隊による三陸沿岸部での軍事行動の戦果を報告に加えましたが、
桓武天皇の怒りはおさまりませんでした。
へつづく
(参考引用文献/佐藤信編「古代史講義【戦乱篇】」)
*1:関東地方の古称