よもぎたむらができるまで08
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
和人の成り立ちを続けます。
大和国家
3世紀末に大和国家が成立し、遅くても4世紀中ごろまでには畿内をはじめとして中部地方から西日本の国土を統一していたそうです。
近畿地方は銅鐸が多く出土する地域で、
弥生文化の中心地となっていて、
中国地方から近畿地方にかけて良質の砂鉄を産したため、
鉄器の生産が進み、
豊富な農具や武器を使用して、
生産力を高め軍事力を強めて、
他の地方に対して優位に立つようになったそうです。
天皇
男神イザナギノミコトと女神イザナミノミコトが結婚して日本の国土を生み、イザナミノミコトの死後、イザナギノミコトは太陽神で女神である天照大野神(あまてらすおおのかみ)を生み、高天原(たかまがはら)を治めさせた。
天照大神は地上の国々を自分の子孫に治めさせようと考え、孫のニニギノミコトに命じ、日向の高千穂峰に天降らせた。
3代ののち、カムヤマトイワレヒコノミコトは東征の軍を起こし、紀元前660年に大和の橿原(かしはら)宮ではじめての天皇の位についた。
これが第1代の神武天皇であるという。
勢力拡大
第10代・崇神天皇は北陸・東海・山陰・山陽の四道に将軍を派遣してこれを平定し、第12代・景行天皇の息子、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は熊襲(九州南部)・蝦夷(関東・東北)を討ったとあります。
5世紀になると、大和国家の首長(倭王)は大王(おおぎみ)と呼ばれ、その地位は明確に世襲されるようになります。
大和国家は、部落国家を服属させ、多くの場合その首長を滅ぼすのではなく、県主としてそのまま地方の行政を任せたり、中央の政治に参与させたりしたそうです。
大和朝廷の成立が300年と仮定すると紀元前660年との間には1000年近い違いがあり、神武天皇はハツクニシススメラミコトともいわれていて、これと同じいわれ方をしたのが第10代天皇の崇神天皇で、大和朝廷成立の年代とも一致するので、実在の天皇は崇神天皇からではないかと考えられています。
渡来人
4世紀の中頃までに国土のほぼ西半分を統一した大和国家は朝鮮半島へ進出します。
それによって多くの中国人や朝鮮人が日本に渡来してきます。
こういった、日本に渡来し、日本の国籍を得た外国人を渡来人と言います。
朝鮮半島は4世紀、高句麗(こうくり)の勢力拡大により遺民が増え、百済(くだら)に亡命していました。
百済は中国南朝と通交していて、多くの中国系の技術者を抱えていました。
中国人や朝鮮人の技術者は、国王により日本に贈られたり、戦闘の捕虜としても日本に連れてこられたりしていました。
大陸から自分の意志で日本に逃れてきた者もいたそうです。
7世紀になると新羅(しらぎ)が強大化し、高句麗・百済の遺民は多数帰化して日本に来ます。
当時の渡来人は、百済からの者が最も多く、新羅・高句麗、中国人も含まれていました。
渡来人は大部分が技術者でしたが、学者もいました。
伝えた技術はいろいろで、陶器・織物・鍛冶・木工・酒造などのほかに、土木技術や農業技術もあり、大和朝廷は喜んで迎え入れました。
朝廷は渡来人を部に編成し、当時の社会・産業・文化の発展に大きな影響を与えました。
氏姪制度ー百済の制の影響
古墳の増築ー大陸系の土木技術の導入によるもの
文字の使用ー日本人が自らの文字を作ったのではなく、渡来人によってもたらされた漢字を習得したもの(古墳時代300年ごろ)
※日本は文字を使用することによって、急速に文明の段階へと進んでいきます。
儒教と仏教ー百済から。同時に中国文化も伝わってきます。(6世紀)
ここまでが先に紹介したアイヌと同時期の和人の成り立ちです。
すでに西日本はミックス種族の最新鋭をひた走っていますね。
次回、今度こそアイヌをまとめてみたいと思います。
よもぎたむらができるまで09 へつづく
(参考引用文献/「いっきに学び直す日本史:教養編」)