おおはたまちができるまで~南部のはなし~42
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
安東の乱に南部氏一族はどう関わったかの続きです。
北条氏の滅亡と南部氏5
「安東氏の乱」と南部長継2
自分らの領地で起こった乱にもかかわらず、南部長継に命令が下ったということは、どういうわけがあったのでしょうか。
もし南部氏が全く糠部に縁がなかったとすれば、甲州にいる長継に追討命令を下すわけがありません。
だからおそらくその頃まだ、糠部のどこかに南部氏の所領が残されていたのではないでしょうか。
史料によっても二戸・四戸・六戸の所務代官は、誰であったかは明らかにされていません。
その頃糠部に南部氏の所領があったとすれば、あるいは長継は、南部の当主・茂時の命令で討伐にあたったのかもしれません。
それでは一体当時宗家の十代・茂時と長継はどのような関係になっていたのでしょうか。
長継の祖父・実長は、南部氏の二代・実光とは同母(母が同じ)の弟で、本領である南部六郷のうち三郷をもらって、新しく波木井家を起こした人です。
だから孫の長継も本当は「波木井長継」といわなければならない人であったのです。
ですが、長継の父は「元弘の乱」で天皇方に味方をし、捕えられて六条河原で処刑されています。だから長継はその重罪人の子で、波木井家もまた、討幕戦に参加した敵方の一家ということになります。
「正中の変」があって以来、天皇方の動きを極力警戒していた北条氏だから、そんな波木井家をそのままにしておくはずはありません。
記録にはないですが、おそらく波木井家は、実継の処刑後まもなく、何らかの処罰を受けたのではないでしょうか。
そして三代目・長継もまた、幕府方である南部氏の監視を受け、その支配下に入って陪臣*1の扱いを受けることになっていたのかもしれません。
「糠部の乱」平定も、あるいは地頭の北条氏から、南部氏総領(当主)茂時に命令が下り、茂時がさらに武勇の優れた長継に、糠部の反乱追討の命令を下したのかもしれません。
いずれにしても「安東氏の乱」では、遠路二度も大軍を派遣しなければならなかった不手際ぶりが、広く諸国の武士たちに知れ渡ってしまいました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~43 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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*1:家来のまた家来