おおはたまちができるまで~南部のはなし~35
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
今回も南部氏の家系図についての疑問のつづきです。
南部氏の衰退期2
南部氏系図の疑問2
「南部史要」には四代・政光の後継者について次のような記事があります。
「はじめ政光に子がなかったので、その弟、義元の長男・義行を後継ぎに定めたが、義行はその意に逆らって甲州に出奔した。それで宗経がたってその後を継いだ。」と。
政光の後継者として、弟・義元の子・義行をあてていたというのですが、いったい十五歳で死んだ政光の後継ぎに、末の弟・義元の長男を定めるということができるものでしょうか。
兄にも子がいないとき、末の弟・義元に子があるわけはありません。
ましてその子・義行が、「意に逆らって甲州に出奔した。」というのだから、その時には義行はもう、相当の年齢になっていたはずです。
また系図で見れば、第六代・宗行と第七代・祐行は同じ年の1250年に生まれています。
これは二人が双生児であったのでしょうか。
昔はよく母の違う兄弟があったから、あるいは二人はその「異母兄弟」であったのかもしれません。
また、その宗行兄弟の伯父(父の兄)である政光は1251年に生まれています。
だから宗行たちよりは一つ年下という事になります。
いったい伯父よりも甥の方が年上であるという事があるものでしょうか。
このようにいろいろ系図に不審の点があるのも、実は「南部史要」の「第四代・政光が、わずか十五歳で亡くなった。」という記事に疑問があるからです。
あるいは政光はもっと長生きをしたのかもしれません。
盛岡の聖寿寺(しょうじゅじ)には、南部氏の初代から第二十五代までの過去帳の写しが保存されています。
その中の第四代・政光については、
「孫次郎政光 清光院殿俊厳崇公 文永元年(1264)七月二十五日 卒年三十六」
と書かれています。
つまり十五歳ではなく、三十六歳で亡くなったと記録されているのです。
また別の南部氏系図には、
「政光は後、名を政元と改めて、南北朝のころまで長生きした。」
ともいわれています。
さてさてどれが本当なのでしょうね。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~36 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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