おおはたまちができるまで~南部のはなし~33
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
実長親子の第五回です。
日蓮宗に帰依した実長親子
倒幕に活躍した二代目・実継3
〈元弘の乱㈠〉
元弘元年 春
後醍醐天皇、僧・文観、円観、中円らに幕府討滅の祈祷をさせる
四月二十九日
五月
日野俊基・文観・円観らの関係者が逮捕され、俊基は死刑、その他の僧は流罪に処される
八月二十四日
夜、天皇は密かに皇居を脱出し、奈良に向かう。
天皇の身代わりとして花山院師賢(もろかた)を比叡山に登らせる
八月二十七日
衆徒の奮戦により、比叡山側の勝利に終わる
八月二十八日
僧兵ら、天皇が身代わりであることを知り、山を下りて四散する
九月
近国の武士ら、続々笠置山に集まる
九月二日
鎌倉の軍勢二十八万八千騎、笠間山に向かって出発
九月中旬
楠木正成が五百騎で赤坂城に立て籠る
九月二十日
幕府は三種の神器のうち、剣と玉は無くとも、量仁(かずひと)親王をたてて、北朝の天皇・光厳(こうごん)天皇とする
九月二十八日
笠置山城ついに陥落
九月三十日
闇に紛れ笠置山を逃れた天皇は、十三㌔ほど離れた多賀村で捕らえられ、その他の落人も各所で捕らえられる(主なものでも60名)
十月三日
第一皇子・尊良(たかなが)親王も赤坂城に向かう軍勢のために捕えられる
この時、波木井実継も共に捕縛される
十月六日
十月二十一日
赤坂城ついに落城。楠木正成は逃れる
十二月二十七日
波木井実継はおそらく尊良親王を守りながら、笠置山から楠木正成の籠もる赤坂城に移ろうとしていたのでしょう。
十月三日に捕えられましたが、他の同志と共に、十二月十三日ついに、京都の六条河原で首を切られました。勤王の志が厚かった実継が、建武の新政を見ることもなく刑場の露と消えてしまったのです。一族の人たちにとっては悲嘆の極みだったことでしょう。
その場に居合わせた日静という僧が藻原寺*1という寺の住職にあてた手紙が明治になって偶然発見されています。
「…この人々今月十三日、六条河原において切られ候。言語道断のことを見せられ候。すべて哀れと思うこと大方のことと存じ候*2。なかに南部彦次郎殿最初に切られ候こと、目も当てられず候。何故にかかる所に来合わせ候やと、遺憾におぼえ候…。」
この時、実継の年齢はすでに75、6歳の老体ではなかったかと言われています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~34 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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