おおはたまちができるまで~南部のはなし~30
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
実長親子の第二回です。
日蓮宗に帰依した実長親子
実長と身延山(みのぶやま)二
その頃の鎌倉は、大地震や暴風雨に襲われ、流行病などが続けて流行ったり、大火・洪水があったりなどして民心の落ち着かない時期でした。
そのうえ蒙古(中国・元)からは何度も通商を求める遣いが来たりして、国中がたいへん騒がしい時代でした。
それで日蓮は「立正安国論」(りっしょうあんこくろん)という本を書いて、幕府に「禅宗や浄土宗をやめさせなければ、国に災害が起こり、外国からも侵入されるだろう。」と予言し、幕府に意見書を提出したりもしました。
しかし幕府は、日蓮の意見を入れないばかりか、逆に「世を乱す者」として伊豆に流し、その後、文永八年(1271)にはついに佐渡に流されてしまいました。
だがそれから三年後の文永十一年十月には、日蓮が予言したとおり、文永の役が起きて、元軍が北九州に上陸し、たくさんの日本人が虐殺されました。
それで日蓮の流罪は許されましたが、この時幕府の批判者である日蓮上人を喜んで迎え入れたのは波木井実長でした。
そしてさっそく日蓮のために、領内の簑夫沢(みのふさわ)に新しい寺を建てさせました。上人はこの寺を身の延る(のぶる)という意味で身延山久遠(みのぶさんくおん)妙法蓮院と名づけ、実長自身も剃髪して「日円」と号し上人の門下に入りました。
今も山梨県南巨摩郡身延町には、その久遠寺があり、日蓮宗の総本山として栄えています。その参道入り口には、日蓮支持の功労者であった波木井実長の像が立てられています。
このように実長が日蓮宗を深く信仰したので、その子たちや一族までみな日蓮の教化を受けたのでしょう。その「幕府批判」、「反幕」の精神は、長男・実継(さねつぐ)をはじめ、後に糠部の八戸に移った根城南部氏の時代にまで受け継がれていったようです。
南部師行(もろゆき)を初代として五代・政光まで、南部氏五代の勤王として終始南朝のために活躍したのも、実はこの実長時代からの影響があったに違いありません。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~31 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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