おおはたまちができるまで~南部のはなし~3
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
今回は、小正月の話から始めます。
初代・光行の奥州下向/その3
えんぶりの始まり
正月十五日(小正月)には、今度は光行たちが部下たちの中から踊りが上手いものを何人か選んで、はやしの音もにぎやかに、
烏帽子、直垂*1に武器をもって、郷士の家や農家を一軒一軒踊りまわらせました。
「正月のお祝いに参上!」
と大声で呼び、抜身の刀を持って家の中に踊りこむので、人々にとってはたまったものではありません。
ただビックリして見ているしかありませんでした。
とにかくこの行事はあまりに物騒で、正月のお祝いらしくないので、
その後、次第に杁*2や扇を持って踊るようになり、これが今も八戸を中心に行われている郷土芸能えんぶりの始まりだと言われています。
また、この小正月は女の年とりとも言われています。
光行たちが糠部についてから、約半月遅れて女たちが到着したので、その女たちのために十五日にお祝いしてやったのが例となって残ったものだと伝えられています。
平良ヶ崎城
こうして、どうにか三戸、田子方面は南部氏に服従するようになりましたが、広い糠部には、まだまだ心服していない郷士たちもたくさんいました。
そこで光行は、平良ヶ崎の小高い丘(現・南部中学校辺り)を選んで、雪が消えるのを待って居城を作らせることにしました。
城を作ると言っても、当時はまだ木工や石工に巧みな者が少なく、工事はかなり難航したようです。
それでも、居猿山総左衛門が棟梁になり、農民たちを励まして工事を急いだので、その年の九月にはだいたい完成したそうです。
そこで光行は、今後の領内経営の方針などを定めて、代わりの者たちをその城に残して、九月下旬には再び鎌倉に帰っていきました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
以上が、初代・光行が初めて糠部に来た際の史実とも、伝説とも言えるようなエピソードを紹介してみました。
どうしても南部の歴史に関する物があまり残っていなくて、いろいろと南部藩に関する本を調べてみましたが、どれもこれも史実なのか伝説なのか、正直わかりません。
そうゆうことで、今回は図書館で見つけた「物語 南部の歴史・中世編」という本が一番しっくり来たので、これをベースにある程度、進めていきたいと思っております。
さて次回は、光行のルーツに迫っていきたいと思います。
おおはたまちができるまで~南部のはなし~4 - こめいがねんど
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