おおはたまちができるまで~南部のはなし~29
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
今回から南部氏四代・政光の話に入っていくのですが、ここから先、第九代・祐政までは南部氏の衰退期と言われています。
そしてその原因の一つでもあると思われる第二代・実光の弟・実長の話からまずは進めたいと思います。
(※南部氏第二代・実光の弟・実長の話は
おおはたまちができるまで~南部のはなし~17 - こめいがねんど
も参照にしてください。)
日蓮宗に帰依した実長親子
実長と身延山(みのぶやま)一
実光の弟・実長は幼名を六郎、または彦三郎とよばれていました。
兄弟たちはみな承久元年(1219)に実光と共に糠部に下り、それぞれ領地をもらいましたが、実長は本領のうち、波木井・館野・三枚橋をもらい、波木井氏を名乗りました。
ある説によると、光行には正妻の子が、実光と実長の二人であったと言われています。
だから光行は本領をこの二人に継がせたのかもしれません。
吾妻鏡によると、 暦仁元年(1238)二月十七日に、鎌倉の四代将軍・頼経が上京をしました。その時に、南部二郎と共に南部三郎も随兵の中に加えられています。この三郎というのは、父の光行が亡くなってから二十年余りも経っているので、おそらく彦三郎ともいわれていた実長だったのでしょう。実長は新しく波木井家をたてたので、やはり兄とともに鎌倉に勤務していたようです。
その鎌倉在住の間に実長は、日蓮宗(法華宗)に深く帰依(信仰)するようになります。おそらく街角に立って教えを説く日蓮の辻説法を聞いたりなどしている間に、日蓮と親しくなり、その感化を受けたのでしょう。
日蓮は安房*1の人ですが、若い頃から仏教を深く研究し、その結果「法華経だけが正しい仏法を伝えるものである。」という結論に達し、鎌倉の辻(四つ角)に立って大衆に法華経を説き、また激しくほかの宗派を攻撃した人です。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~30 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
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*1:あわ=千葉県南部