こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~28

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

南部氏三代目・時実(ときざね)の話、第8回です。

 

南部氏三代時実と北条時頼

得宗領と糠部

 「得宗」(とくそう)というのは、北条氏の二代目・義時の法名*1です。

こうして北条氏の第五代・時頼の頃までには、次々に頼朝の有力な御家人たちが倒され、その度に北条氏の領地が増えていきました。

その領地を義時の法名にちなんで「得宗領」と呼んでいます。

津軽四郡(平賀・山辺・鼻和・田舎)は大河兼任の乱後、真っ先に義時の領地となったので、おそらく津軽は「得宗領」の初めであったのでしょう。

 

しかし糠部が北条氏領となったのは、時頼の頃ではないかと言われています。

もしそれが事実であったとすれば、その年代差は五十年以上にもなります。

それではその五十余年間の糠部の地頭はいったい誰だったのでしょうか。

 

南部史の伝えるところによると、これまで紹介してきたように、初代の光行から二代・実光、三代・時実であったと言われています。

だがもちろんこの三人も、通常は鎌倉に住んでいて幕府に勤務していたので、現地には誰かを代官として派遣していたに違いありません。

ただ南部氏が糠部の地頭であったという確証がないので、今でもそれが大きな疑問になっています。

 

「中世奥羽の世界」によると、糠部も津軽四郡と同様北条氏の所領、つまり「得宗領」であったと言っています。

しかしそれは北条氏五代・時頼以後のことで、その前の初代・時政や二代・義時のころ、つまり鎌倉初期には、まだおそらく糠部は北条氏領とはなっていなかったのでしょう。

 

鎌倉時代の中期、時頼の代までには、北条氏は全盛時代を迎えたので、多くの御家人たちは、自ら進んで北条氏に領地を提供し、自分は地頭代職、または代官職として、自領を管理したともいわれています。

その方が北条氏と対抗して争ったりするよりは、はるかに有利であったに違いありません。

 

平盛時が五戸の地頭代職に任ぜられた寛元四年には、実光が六十六歳、時実が二十五歳のときでした。

だから二人はよく話し合い、時勢の動きに応じて、糠部全体の地頭職を時頼に譲り、一族の者はそのまま代官職(所務代官)として、自分の領地の管理にあたったのかもしれません。

 

ここまで三代・時実の話でした。

次回からは南部氏・四代以降の話になっていきます。

 

 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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おおはたまちができるまで~南部のはなし~29 - こめいがねんど

へつづく 

 

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*1:出家してからの名前