おおはたまちができるまで~南部のはなし~27
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南部氏三代目・時実(ときざね)の話、第7回です。
南部氏三代時実と北条時頼
五戸の地頭代職03
次に狙われたのは三浦氏の一族でした。
建保元年(1213)には、頼朝の忠臣であった和田義盛(三浦義明の孫)が、北条義時の計略により、和田合戦を起し、由井が浜で敗死をしています。
同じく三浦義明の孫・三浦義村が承久元年(1219)に、二代将軍・頼家の次男・公暁たちをそそのかして、北条義時を殺そうとして失敗に終わっています。
また、それから二十八年後の宝治元年(1247)には、宝治合戦が起き、三浦義村の子・泰村が、北条時頼のために滅ぼされています。
これでほとんど幕府内には、北条氏に対抗するような御家人がいなくなりました。
この宝治合戦では、同じ三浦氏の一族でありながら平盛時(義明の孫の子)は、時頼方に味方をしています。
それで泰村が滅ぼされた後は、三浦氏領はそのまま北条時頼の所領となり、盛時は三浦介(みうらのすけ)に任ぜられました。
介というのは次官のことであるので実際は盛時が三浦半島を管理したのでしょう。
盛時が五戸の地頭代職に任じられたのは、その前年の寛元四年(1246)であるので、すでにそのころから盛時は時頼の輩下になっていたと思われます。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~28 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
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