こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~24

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

南部氏三代目・時実(ときざね)の話、第四回です。

 

南部氏三代時実と北条時頼

時頼の回国伝説02

小さな草庵の主、捐城和尚(えんじょうおしょう)に時頼が宿を頼むと、捐城は快くひきうけ、その夜は厚くもてなしました。

 翌朝になって時頼が目を覚ましたら、どうしたことか和尚の姿が見えません。

 それで仕方なく持っていた扇に、

「捐城には千石を与える。」

という墨付(証拠書)を書き残して、時頼は山を下りました。

途中まで来たら、下から上がってくる捐城にばったり出合いました。

「どうしたのか」と聞いたら、

「今朝炊く米が無いので、ふもとに下りて托鉢をしてきた。」

というのです。

 

時頼はそのまま捐城と別れましたが、それから一年近くも経ったでしょうか。

忘れたころに捐城の庵に、立派な身なりの二人の侍が訪ねてきました。

 そしてあの桂笠は処刑され、観音寺をとりこわして、その後に立てたのが、今三重塔もある立派な寺「白華山法光寺」です。

捐城は直ちに千石の寺領を持つ法光寺の住職に任ぜられました。

 二人がばったり出合ったというあたりのことを、今も出合い坂と呼んでいます。

そしてその道の脇には二人が向き合っている形の石像が立てられています。

 

時頼はそれから津軽に回り、今の南津軽郡藤崎町では、かつての愛妾*1唐糸(からいと)のために、卒塔婆をたて、秋田県に向かいました。

秋田では初七日の卒塔婆をたて、また同じ山本郡では、二七日の卒塔婆をたてて供養をしたということです。

 

 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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以上、時頼の逸話を二回に分けて紹介しました。

ん~、時頼という人が、良い人なのか悪い人なのか、よくわかりません。 

次回は、その時頼に仕えた平盛時という人を紹介してみたいと思います。

 

おおはたまちができるまで~南部のはなし~25 - こめいがねんど

へつづく 

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

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*1:あいしょう=第二夫人