おおはたまちができるまで~南部のはなし~22
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南部氏三代目・時実(ときざね)の話、第二回です。
南部氏三代時実と北条時頼
執権時頼の信任を得た時実02
文応二年は改元されて弘長元年(1261)となりますが、この年の九月三日には、時頼の師、辨法印審範(べんほういんあきのり)という禅宗の学者が危篤状態に陥ったので、時頼が最後の対面に出かけました。
その時お供をした四名の中に、南部又次郎時実の名があります。
この時にまた時実も病にかかり、剃髪して実願(じっかん)と称しています。
そして、それから二年後の弘長三年(1263)には、今度は時頼の病気が悪化し、重態となりました。
時頼は自分の臨終を心静かに迎えようと、病室を最明寺に移し、人々の入邸を固く禁じさせました。
そしてわずか六、七名の者だけが入室を許されました。
武田五郎三郎
南部次郎
長崎次郎左衛門尉
工藤三郎右衛門尉
尾藤太景氏(びとうたかげうじ)
宿屋(すくや)左衛門尉
安東左衛門尉
この南部次郎というのが「南部次郎時実」のことです。
時実は、時頼の後を追うように、その翌年、文永元年(1264)一月十九日に鎌倉で亡くなっています。五十三歳でした。
遺骨は糠部に運ばれ、三光庵に葬られたということです。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
次回は、三代・時実が忠誠をつくした執権・北条時頼のエピソードをひとつ。
おおはたまちができるまで~南部のはなし~23 - こめいがねんど
へつづく
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蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
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