こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~20

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

南部氏二代目・実光(さねみつ)の話、第9話です。

 

糠部行政の基礎を築いた二代・実光-その9

九か部四門の制

糠部には古くから牧場経営のために、九か部四門(きゅうかのぶよつかど)の制がしかれていたと言われています。

九か部四門というのは、部には戸という意味もあるので、九か部=九か戸(のと)ということです。

糠部には今でも一戸から九戸までの地名があります。

この地名の由来については、この牧場説のほかに、宿場説や文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)という人が蝦夷を征伐したとき、前進基地(兵站部=へいたんぶ)として一戸から九戸までの根拠地を作ったのだろうという説もあります。

 

おそらくはじめはただの地名であったのでしょう。

しかし奥州藤原時代の頃から、糠部は有名な馬産地であったので、この地名が馬産に関係のある地名としても利用されるようになったのではないでしょうか。

つまり、一の部(戸)から九の部(戸)までの各部に、ひとつずつの牧場をつくらせ、各部に七つの村を所属させて、六十三ヶ村が協力をして軍馬の育成に努めたというのです。そして一定の貢馬*1を納めるように制度化したのです。

そして各部にはばさんの責任者として牧士(まきし)をおき、牧士の報酬として牧氏田(まきしだ)一町歩を与えたということです。

 

奥州藤原二代目・基衡が、後白河院に献上した「一の部黒」という名馬は、一戸産だと言われています。

なので、その頃(十二世紀前半)すでに一戸は「一の部」ともいわれ、あるいは部制に似たような制度がしかれていたのかもしれません。

 

一の部から九の部まで、広い区域であったため、便宜上これを四つの門に分けていました。つまり「東の門」「西の門」「南の門」「北の門」といわれるものです。

南の門 一戸・二戸

西の門 三戸・四戸・五戸

東の門 八戸・九戸

北の門 六戸・七戸

 

以上、南部氏二代目・実光の功績などを追ってまいりました。

次回は、南部氏三代目・時実にまつわるエピソードを紹介していきたいと思います。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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おおはたまちができるまで~南部のはなし~21 - こめいがねんど

へつづく 

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

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*1:くめ=政府や幕府に献上する馬