おおはたまちができるまで~南部のはなし~2
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
早速糠部の改革に入っていきます。
初代・光行の奥州下向/その2
光行が、つかの間の一服をとっていいると、田子丹波が忠告しました。
「仮にも領主さまの館には、一日といえども非常の備えがなくてはなりません。
早速人夫を集めて防備を固めさせましょう。」
それから急いで村人を動員して、徹夜の作業をして、その夜のうちに家の周りに堀を掘らせました。
これを丹波の一夜掘りというそうです。
この日集まった郷士の中には、
佐々木氏、原氏、斗内市、福田氏、豊川氏、日ノ沢氏などという者たちがいたそうです。
南部の私大
この日十二月二十九日は、十二月でもあいにくの小の月で、ちょうど一年の大晦日の日に当たりました。
ですが、その二十九日に人夫を集めて堀を掘ったりしたので、とても大晦日のお祝いなどをしている暇がありませんでした。
そこで、光行たちが相談して、
この年だけは特別、小の月を大の月に変えて、翌三十日を大晦日とし、二日を元日として正月のお祝いをすることにしました。
昔は旧暦を用いていたので、大の月は三十日で、小の月は二十九日でした。
今のように三十一日という日は無く、年によっては十二月でも二十九日が大晦日の年もありました。
この例が、その後も習わしとなって、
南部家では代々、十二月が小の月に当たる年には、特別これを大の月に変えて、大晦日や元旦のお祝いをしたということです。
これを南部の私大(わたくしだい)とよんでいます。
さて、光行一行は翌二日を元日として正月のお祝いをしましたが、これを聞いた近くの村々の郷士たちが、いろいろな物を持って丹波の家に集まり、領主に正月の御挨拶をしました。
これもまたその後の例となって
代々この郷士たちの子孫は、正月には南部家に何か物を献上して、領主に拝謁*1を賜ったということです。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~3 - こめいがねんど
へづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
*1:はいえつ=お目にかかる