こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

おおはたまちができるまで~南部のはなし~12

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

南部氏二代目・実光(さねみつ)の話に入っていきます。

 

糠部行政の基礎を築いた二代・実光-その1

実光の糠部入部(1)

南部家の系図については、

「南部系図」、「南部御系図」、「源家南部系図」、「秋山系図」その他いろいろな系図が伝えられています。

でもこれらの系図はみなそれぞれの違いがあって、どれが正しいモノともいわれないようです。

その中のどの系図を基にしたかは不明ですが、「南部史要」と「奥南旧指録」という書物の記録によると、光行には、行朝(ゆきとも)、実光、宗朝(むねとも)、行連(ゆきつら)、実長(さねなが)の六人の男の子があったということです。

長男の行朝は正妻の子でなかったので、次男の実光が南部家の二代目を継ぎました。

 

実光は治承五年(1181)甲州巨摩郡で生まれました。

「南部史要」によると、

実光が糠部に入部したのは、承久元年(1219)38歳のときといわれています。

「この年、鎌倉大いに騒擾す*1。公(実光)これを避け、一門を率いて糠部に下向す。」

と書かれています。

 

その承久元年、鎌倉で、将軍家の存続にもかかわる大事件が起きています。

三代将軍・実朝が右大臣に就任したので、鶴岡八幡宮で盛大な拝賀式を行いました。

ところが、その帰りに、闇に紛れて実朝が暗殺をされたのです。

犯人は八幡宮別当公暁(くぎょう)でした。

公暁は石段わきのイチョウの陰から躍り出て、

「親の敵はこう討つものだ!」

と叫び、一刀のもとに実朝を切ってしまったのです。

同勢の法師も三、四人いて、騒ぐ共たちにも切りかかり、太刀持ち源仲章(なかあきら)まで切ってしまいました。

 

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【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

おおはたまちができるまで~南部のはなし~13 - こめいがねんど

へつづく 

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

 

*1:そうじょう=騒がしくなる