おおはたまちができるまで~南部のはなし~12
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南部氏二代目・実光(さねみつ)の話に入っていきます。
糠部行政の基礎を築いた二代・実光-その1
実光の糠部入部(1)
南部家の系図については、
「南部系図」、「南部御系図」、「源家南部系図」、「秋山系図」その他いろいろな系図が伝えられています。
でもこれらの系図はみなそれぞれの違いがあって、どれが正しいモノともいわれないようです。
その中のどの系図を基にしたかは不明ですが、「南部史要」と「奥南旧指録」という書物の記録によると、光行には、行朝(ゆきとも)、実光、宗朝(むねとも)、行連(ゆきつら)、実長(さねなが)の六人の男の子があったということです。
長男の行朝は正妻の子でなかったので、次男の実光が南部家の二代目を継ぎました。
「南部史要」によると、
実光が糠部に入部したのは、承久元年(1219)38歳のときといわれています。
「この年、鎌倉大いに騒擾す*1。公(実光)これを避け、一門を率いて糠部に下向す。」
と書かれています。
その承久元年、鎌倉で、将軍家の存続にもかかわる大事件が起きています。
三代将軍・実朝が右大臣に就任したので、鶴岡八幡宮で盛大な拝賀式を行いました。
ところが、その帰りに、闇に紛れて実朝が暗殺をされたのです。
「親の敵はこう討つものだ!」
と叫び、一刀のもとに実朝を切ってしまったのです。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~13 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
*1:そうじょう=騒がしくなる