おおはたまちができるまで~南部のはなし~11
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
南部氏初代・光行についての第5回です。
南部氏初代・光行/その5
光行の死と墓
「南部史要」によると
光行は、建保三年(1215)十一月二十一日鎌倉で亡くなりました。(六十九歳)
葬儀は甲斐で行いました。
墓は書物によって異なっていて、
「雲樹院に葬り奉る」とあったり、「三戸三光庵に葬り奉る」と書かれています。
雲樹院という寺がどこにあったかはわかりませんが、光行らの墓と伝えられる墓石は、鎌倉の極楽寺の塔中*1速成就院の跡地に四基並んで残されていました。
高さ五尺二寸(1.57㍍)ぐらいから、六尺九寸(2.1㍍)ぐらいまでの大きな五輪塔が四つ並んでいたのです。
その五輪塔を極楽寺に残されている過去帳と対照してみると、南部家初代・光行と、九代・佑政、十一代・信長、十二代・政行の墓石にあたるのではないかと考えられたのでした。
そこで、大正七年(1918)五月、南部伯爵家では、京都大学教授・原勝郎氏とその門下の梅原未治氏に調査を依頼しました。
調査結果によると、
「外形からだけでは年代を軽々しく判断できないが、その形は明らかに鎌倉時代から室町時代初期の特徴を持っている。
四基は初代、九代、十一代、十二代のものであるという言い伝えと、今回の調査結果から合致する。
ただ、初代の墓は後に南部家がここを墓地として定めてから作ったもののようである。」
ということでした。
この成就院の跡地にあった四基の五輪塔は、後に盛岡市北山に移され、現在は南部家の菩提寺・聖寿寺にあります。
光行の霊は、昔三戸城があったという三戸町城山公園にある糠部神社に祭られ、また盛岡城址にある桜山神社にも祭られています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
おおはたまちができるまで~南部のはなし~12 - こめいがねんど
へつづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
*1:だっちゅう=わき寺