源さんが行く02
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)シリーズ 第2回をはじめます。
天明二年の記録 ~その弐~
1782年 村林源助 35歳 宿老
幕府将軍 徳川家治(いえはる)
原始謾筆風土年表とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
〇大畑の鷲巣山(わしのすやま)を飛騨国(岐阜県北部)の材木商、飛騨屋武川久兵衛*1が一千五百両で請け負った。伐採終了後に二間の尺角・五十本を南部藩に献納する。
〇菊地忠右兵衛、佐々木半兵衛、堺紋兵衛の三人の大畑の商人が百八十石で川代、野牛、鹿橋などを知行(ちぎょう)して新規に南部藩田名部給人に昇格*2した。百斛(こく)あたり七百両の冥加金(みょうがきん=献金)献納による。
〇八幡宮の義倉(ぎそう)に稗(ひえ)二百俵*3を凶作にそなえて貯蔵した。
<豆知識 >備荒倉(びこうぐら)の制度
備荒倉は江戸幕府の国策で元は中国にあった制度です。この制度には、
義倉(富裕者の義捐、または課徴金によって穀物を供出させて貯蔵)、屯倉(みやけ=朝廷の直轄領から収穫した稲米を蓄積する倉)、常平倉(官府の財力で穀物を貯蔵し、これらの売買によって市場価格の安定を目的とする、現在の食管法ともいうべきもの)、社倉(多数の者が身分相応に任意に穀物を出し合って貯蔵する)などがありました。
また、稗に関して明治時代の書物には次のように記載されています。
稗は久しく貯蔵に堪えた。長年月にわたり貯蔵していると、下積みの稗はほとんど土のごとく凝結したが、凶作に際しては鍬で掘り起こし粥にしてすすり、また施した。鍬で掘り起こす際は、手ぬぐいで鼻と口をおおい、発生するガスで窒息することを予防した。
〇椰子の実をノッコロの浜で拾う。
椰子の木は舟や車の良材でこわれにくい。椰子の葉は屋根葺きに、編めば帆に、実で飢えをしのぐ。汁は渇きをいやす飲み物。酢や砂糖の材料にもなる。その酒は上質の苦酒(ショウチュウ=椰子の実ショウチュウ)。椰子油は燈油、刀傷や痔にもよく効く。茎は固いので針にする。殻はお椀代わりや水を飲む入れ物。外側の皮はなって大網として錨のトモヅナに。…椰子の木があれば家中の用途になり、売り物にもできるのになぁ。
以上が天明二年の記録になります。
すでに凶作の兆候が出てきているようで、凶作対策用に義倉に稗を貯蓄しています。
このブログの参考資料である佐藤ミドリさん(訳)の原始謾筆風土年表にも書かれてありますが、当時はもちろん保険制度や福祉制度がありません。だから火災や飢饉にみまわれると、即生死にかかわる生活になってたというのは想像に難しくありません。
それでも当時から援助金や穀物支給の制度があって、なんとか乗り越えてきていることに感動します。
天明二年の記録最後の、椰子の実エピソードが、当時の源さんの心境をすべて物語っているように思われました。
翌年天明三年、日本は天明の大飢饉にみまわれることになります。
天明三年の記録
へつづく