こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村から青森県の歴史や記録を紹介する歴史探求ブログ

源さんが行く97

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

寛政十年の記録6です。

 

寛政十年(1798)の記録・其の六

江戸幕府御目付の渡辺久蔵および松山惣右衛門、大塚虎蔵、細見権十郎、村田兵左衛門、田草川伝治郎、青柳貞市、根津清左衛門、大橋善四郎は、松前から江差までお通り。

御使番(おつかいばん)の大河内善兵衛および大島栄治郎、土屋鉄四郎、野々山牧三郎、小沢弥三郎、柳田元吉、近藤重蔵、長嶋新左衛門、村上嶋之丞は蝦夷へお通り。

勘定吟味役の三橋藤右衛門および太田重右衛門、水越源兵衛、篠塚源太夫、寺田忠右衛門、中村小市郎、大橋元六、鈴木栄助は西蝦夷へお通り。

以上三組、総勢百五十人が三厩から北海道に向かった。

   

松前藩主・章広候が江戸幕府に出府するため、ちょうど七戸街道を通っていた時に、幕府から藩に戻れとの御奉書(命令文書)が届き、そのまま松前に引き返した。

その文章の内容は

 

 一筆啓上 その方が年の暮れまでに幕府に出府する予定という事は承知いたしている。

しかし、外国船が度々当地に姿を現す現状にあっては、その方があえて出府するには及ばない。

幕府は、隠居した先の藩主である父・大炊介(おおいのすけ)に御用の向きがあるゆえ、即刻出府して御用を全うするよう取り計らえ

 

 安藤対馬

 十一月 松前若狭守殿

 

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蝦夷の赤牟岳*1には二つの頂上があり、雌赤牟岳(めあかんだけ)は硫黄の噴出する活火山である。

噴火でせき止められた湖にはたくさん島ができ、佳波留千荏府(チミケップ)と呼ばれるニシンほどの大きさの魚(ヒメマス)が住み着き、その乾魚が今年我が町にもたらされた。

また、岩ツバメの生まれる石狩港は、川幅六百間(約一㌔)、上流までは九日間遡る。

十勝の港は二筋の川に挟まれているが、四㌔ほど遡ると川は一つになり、その川幅六町(六百㌔)、天塩(てしお)の港も幅六町ほどで、この三つ大きな川の源流をたずねると、水源は湖である。

 

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へつづく

 

 

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