源さんが行く09
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
天明四年の記録にもどります。
原始謾筆風土年表とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
天明四年(1784年)の記録・其の参
関根橋の、人々は寛文二年(1662年)、五戸から逃散*1、
この地を開拓して、三十五石三斗七升七合の村となった。
もとは正津川の枝村であったが、大畑の枝村にしようと話し合い、
そうなりかかっていた。
しかし、川代、高梨、鴉沢、南関根などが次々と御給地となってしまい、
本村の関根は小高や人口の減少を懸念された。
そのため関根橋の一軒も中止となった。
昔は年貢の取り立てが厳しいと、近所の人たちと話し合って集団で他の土地に逃げていたんですね。そして新しい土地をみんなで開拓する。
団結力が凄いですね。
長崎俵物十人組の請負が廃止になり、
幕府の直轄となって御普請役の青島俊蔵がやってきた。
田名部通では、
煎海鼠*2―八千五百斤(一斤=600g、5t)
白干鮑*3―三万斤(18t)
毎年製造するようにとの命令
長崎地役だという苗字帯刀の役人が二人、松前とこの辺り、三陸海岸の宮古までも調査に来ている。
しかし年々水産資源も取り尽くされた。
これほどまで減少してしまうものだろうか。
売値も安い。
以前は白干鮑六万斤(36t)、煎海鼠も何万斤も取れたというのに…。
対中国向けの輸出品である俵物について、長崎俵物会所が設置され、長崎俵物一手請方商人による独占体制から、幕府の直仕入制に改められました。
もともと長崎貿易の輸入品決済は金銀でしたが、流出が著しいため1685年に銅輸出による交換貿易制に切り替えられました。
1696年にはさらに銅に代わるものとして煎海鼠、白干鮑からなる俵物(1764年フカヒレを追加)、および昆布、スルメ、テングサなどの諸色の輸出が許可されました。
1698年には長崎会所が設置され貿易統制が強化されます。
十八世紀半ばには、貨幣鋳造のため、逆に金銀の輸入がはかられ、輸出品として俵物・諸色の増産が計画されます。
1744年、幕府は長崎町人八人に俵物一手請方を命じ、資本を与えて、俵物の独占集荷体制を強化しました。
彼らは各地の下請問屋を傘下におさめて、俵物の生産や流通を監視しました。
しかし海産物の国内需要の高まりから仕入れ値が高騰し、一手商人による集荷が困難になり、さらに抜け荷と呼ばれる密貿易も横行しました。
このような状況に見切りをつけた幕府が、直仕入制に切り替えて、密貿易の厳禁に乗り出しました。
ちなみに俵物・諸色は中国に輸出され、高級料理の材料になっていました。
(日本全史:1785年の項より)
若松丸が常陸の国水戸領で難破
目名の獅子組は二年ごとに回る。
今年はそれがない年だが、太神宮において山伏舞を奉納した。
藤右衛門という者は、生まれつき眼が以上に大きく、鼻も高く、赤ら顔である。
そのうえ、額に瘤が二つできてしまったので、
南町に本物の鬼の祖父と祖母がいるとのうわさが広がった。
以上、天明四年の記録でした。
へつづく
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