源さんが行く74
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政八年の記録に入ります。
源さんは49歳になりました。宿老の仕事に励んでいます。
寛政八年(1796年)の記録・その壱
■清国は五代君主の嘉慶元年となる。
海陸役(税)が始まった。
許可された木材をこれまでの間尺役の入札と同様、請負制にして総額で三千両である。
これまで長く続いていた分限金(強制的寄付金)は廃止してほしい旨を願い出て実現した。
松飾りに松の枝のみを用いること、野焼き禁止の例が出る。
■制服*1は明和(1764~72)の頃にも行われた。
今年から七年間にわたって紬織*2以上の着物の着用は禁止である。
南部藩は全域の村役・町役人を退役させた。
当初四月二日から実施のはずであったが、百姓(町民)一同の願い出により四月六日から元々の宿老・検断が復帰した。
「田名部御給人」
盛岡藩の地方行政を語るにあたって御給人制という特色のある制度に触れないわけにはいかない。
田名部代官所の役方の多くはこの御給人層の人々である。
盛田稔氏は、盛岡藩の地方支配機構としての御給人制度について次のように述べている。
〈御給人とは、城下を離れた在町の土着し、相当の知行地の保有を認められ、それからの年貢収入に依存して生活するか、あるいは自らその土地に依拠して農業を営むか、また時には商業を営むかしながら、同時に藩士に準ずる待遇(苗字・帯刀・年貢取得権等)を与えられ、その反対給付として一定の軍役に従事する者、つまり半農半士、あるいは半商半士的生活を営んでいた者を指す名称であり、一般に言う郷士に近い概念に属す。
これらの御給人は、いわゆる藩士と厳然と区別された。
その居住地を支配している代官の置かれた地域名を冠して七戸御給人、野辺地御給人などと称された。
これらの御給人は、藩の地方行政機構である代官所の役人として、あるいは藩の財政窮乏打開に貢献するなど、藩政に寄与するところ、多大なものがあったと同時に、在町における各方面の指導者でもあった。〉
このように御給人は正規の藩士とは区別されながらも、藩政にとって重要な存在であり、在町においては指導的な役割を果たしていた人々なのである。
【川内町史より】
へつづく
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