こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村の歴史や文化、たまに趣味のねんど作品を紹介する雑記ブログ

源さんが行く56

下北半島食べる通信「大畑の海峡サーモン」(2016夏 バックナンバー)【電子書籍】[ 下北半島食べる通信編集部 ]

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

ラクスマンの来航の別記録・中央公論社版のつづきです。

 

ラクスマンの来航2

松前藩の急報に接した幕府は、松平定信以下、額を集めて熟議をこらしたが、意見が紛糾して、なかなか決まらなかった。

ラクスマンの要請は、幕府の祖法(祖先伝来の法)である鎖国体制の拒否を意味する重大事にほかならなかった。

 

そのなかで松平定信の表明した意見は注目すべきものであった。

「ロシアの使節は理由なく来航したわけではなく、わが漂流民を送還するために来たのである。彼の方に名分がある。

しかも、その表流民を、江戸に出て直接幕府に引き渡すことを強硬に主張し、 根室で幕府の指令を待つと言い張っても根室は日本の土地でないから追い払うわけにいかない。

また、根室に待っていても指令のないときは江戸に乗り込んでくるというのも、彼の方が正しい。

それを、上陸を許さないなどと非道なことを言えば、いっそう彼我の曲直*1がはっきりしてしまう。

はるばる千里やって来た者を、通称を求めるなら長崎に来いというのも無礼な話である。」

 

これを見ると松平定信は、根室は日本の土地でないと考えていたようである。

それは蝦夷地を日露両国の境界とする彼の主張に基づく。

老中の中には、

「長崎で通称を許せば、琉球への回路を覚えて、後の災いとなろう」と反対したが、

松平定信

「ロシアは万国と通商しているから、長崎へ来て初めて長崎への海路を知るなどということはありえない」と反論し、

また、

蝦夷地は不毛の地だから、ロシアにこれを併合する手段はあるまい」という者がいると、

「それは日本人の考えることで、カムチャッカなどは蝦夷地よりも土地が悪く、またロシア人は米だけで生活するのでないから、たとえ不毛の地でも日本で考えるようなことはない」と答えるなど、

幕閣を圧する海外知識の一端を披歴している。

 

ロシア使節対策については、松平定信の意見に基づいて次のように決定した。

国書、献上物は受け取らない。

江戸への直行を許さない。

漂流民を受け取り、礼を厚くしてその労をねぎらう。

江戸以外では引き渡さないと主張したら、漂流民は受け取らない。

通商の願意があるなら長崎に回路させる。

この交渉のために宣諭使(せんゆし)として目付を現地に派遣し、ロシア使節を説得することなどであった。

 

その間、根室から松前に回路していたラクスマンは、そこで漂流民をわが方に引き渡すとともに、初志を貫こうと長崎入港を認めた宣諭使署名の信牌*2を求めたので、宣諭使も松平定信の指令通りそれに応じた。

しかしラクスマンは、六月三十日、松前を出港してそのまま帰国の途につき、翌年、ペテルスブルクに到着した。

信牌をもらっておきながら長崎に回路しなかった理由ははっきりしないが、無理押しすることを避けて、次の機会をねらったものであろう。

 

松平定信は、もしラクスマンが長崎に回って通商を要求したときはやむをえず、長崎か蝦夷地のどちらかで適当な方法によって通商を許す決心であった。

 (原始謾筆風土年表・意訳資料/中央公論社:日本の歴史より)

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 以上、ラクスマンの来航に関する幕府側の記録を原始謾筆風土年・資料編より紹介しました。

 

そして次回からは第四集/寛政五年~七年までの記録に入ります。

サラッと予告に移ったのは、実はラクスマンの船がまだいます。

そのへんの続きから第四集ははじまります。

 

第四集

源さんが行く57 - こめいがねんど

へつづく

 

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

第二集の最初から読みたい方は

源さんが行く14 - こめいがねんど

 

第三集の最初から読みたい方は

源さんが行く39 - こめいがねんど

*1:きょくちょく=正しいか、正しくないか

*2:しんぱい=貿易許可証