源さんが行く40
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
寛政二年後半から、第三集は始まっております。
その2回目です。
寛政二年(1790年)後期の記録・その弐
奥戸の山伏・金剛院は、浄蔵貴所(じょうぞう・きしょ)や役小角(えんのえづぬ)などの修験者のように、手燈*1を行い香を焚く。
燃える火の上も歩く修行を行う。
近くの浜辺で大切な船の身縄*2が流されたと聞きつけ、若宮観音(福浦、現・稲荷神社)から浜に下り、陀羅尼経(だらにきょう)を唱えながら七会回りの祈祷を行った。
すると、なんと二、三日して、その身縄が浜にうち寄せられた。
佐井の修験の大昌院は、木食(もくじき)、断食修行を繰り返し、山岳修行や江の島の洞窟籠り*3も行い、役小角(えんのおづぬ)や泰澄*4の流れをくむ修行者である。
身を切るような冷たい滝の水に打たれ、五大尊と呼ばれる不動尊、降三世(ごうさんぜ)、軍荼利(ぐんだり)、大威徳、金剛夜叉の画像に祈ると、なんと役所の間尺局で紛失した五十両が七日を待たず、建物のなげし*5から出てきたと語り伝える。
江差のニシン漁の豊漁も姥神に祈っており、箱館の穴間の洞窟*6に入り何日も修行している。
こうした水や火の修業に堪えられるのは、生来の屈強な体質や気質によるものなのだろうか。
箱館の穴間は、幅四間(約七㍍)、高さ三間(約六㍍弱)、海岸の絶壁にある洞窟である。
突然の風雨の折に図合船*7がこの沖にこぎ入って一時待避する場所だという。
奥に二町(二百㍍強)ほど進むと、荒波に影響されない砂地があり、二十町(二㌔)ほど進むと推砂府の方向という。
へつづく
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