源さんが行く145
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの享和元年の記録その6になります。
享和元年(1801)の記録・其の六
緯度測量のため海岸線の村々へ下総の伊能勘解由(かげゆ)忠敬がやって来た。
去年は蝦夷地。今年は上総(かずさ)から安房(あわ)、常陸、陸奥、出羽と進み、下北にやって来たのは十月だった。
そして、この辺りは北緯四十一度と計測した。
持ち物は地球図説(世界地図)、暦象考成(天体観測用品?)、象限儀*1、七寸(20㌢余)もある大きな磁石あるいは垂揚球から分銅を吊り下げ自動的に歩行距離が測れるようにした歩行距離測定器*2。
寒暖の差によってガラスの内側の水気が昇降する寒暖計など、どれもすばらしかった。
天文学を学ぶ伊能忠敬(ただたか、56歳)が、幕府の許可を得て蝦夷地測量の旅に出発した。
伊能忠敬は上総で酒造業を営んでいたが、四年前に家督を長男に譲って江戸へ出ると、十九歳年下の幕府天文方・高橋至時(よしとき)の門に入り天文学を学び始めた。
この頃、高橋らの学問上の課題は、緯度一度の長さを確定することであり、そこから地球の大きさを割り出すことだった。
伊能忠敬は、江戸の測量を計画したが距離が短すぎるため、高橋のすすめに従い幕府に願い出て自費による蝦夷地の測量を行うことにした。
途中、距離のある奥州路で一度の長さを測定する計画である。
四月十九日、江戸を発った伊能ら一行六人は歩測しながら北上、夜は天体観測を行って一か月余り後の五月二十二日、箱館に到着。
さらに室蘭、襟裳岬、厚岸と海岸線に沿って進み、八月七日には根室の西の西別に至り、蝦夷地の東端まで行こうとするが、作業員の調達が出来ず根室半島とクナシリ島は方位測定だけにとどめ、十九日帰路についた。
十月二十一日江戸に戻った時には、出発時の所持金百両が、わずか金一分になっていた。
幕府からの下賜(かし)金は二十二両一分、残りは測量器機の新調費なども含めて自費によるもので、伊能忠敬の負担は莫大なものだった。
十二月二十一日出来上がった地図を幕府に献上すると、伊能忠敬の測量技術の確かさが認められ、日本全土の沿岸測量が実施されることになる。
1816年の測量完了までに、伊能忠敬は三千七百三十七日を費やし四万キロ近くを測量、1203の地点で天体観測を行った。
これにより伊能図と呼ばれる彩色の大図214枚、中図8枚、小図3枚が作成された。
しかし、幕府はこれを秘蔵し、伊能図をもとにした地図が刊行されるのは1865年になってからである。
資料編【日本全史/寛政十二年(1800)の項より】
へつづく
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