源さんが行く100
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
「太閤真顕記」(たいこうしんげんき)第二回です。
寛政十年(1798)の記録「太閤真顕紀」其の弐
―その秀吉が羽柴筑前守と称していた時代のことである。
それ、主将の法、つとめて英雄の心を取り、功有りしを賞禄し、志を衆に通す
という文を読み、その道理を解説しようとしたとき、秀吉いわく
「わしは、『三略』の肝心なことを心得、その意味を完全に会得した。その先は言うに及ばない。」と。
またある時は論語の講釈を受け、
子いわく、吾、道は一を以て之を貫く
という言葉を知り、
「わしが思うに論語の様々な名言格言も、この〈一を貫く〉の一語に尽きると言えよう。今からわしも〈一を貫く〉の精神で行くことにする」
とおっしゃって、これも最後まで話を聞かなかった。
―またある夜、昵懇*2の者たちをお側に集め、古今の名将たちの知勇比べをしていわく、
「わしは、亡き信長公の命を受け、中国討伐の討ち手として因幡(いなば)の国に駆け下り、鳥取城を兵粮攻めにし、岡山の高松城を水攻め*3にした。
京において信長公が明智光秀に殺されたと早馬で知らせが入ったため、毛利氏と和睦、大急ぎ京へ馳せ戻った。そして、山崎の合戦で打ち勝ち、明智光秀一党を攻め滅ぼした。
さらに柴田勝家の謀反を知り、賤(しず)ヶ岳でこれを破った。
また、四国の長曽我部元親を降伏させ、九州に進んで島津家を配下にした。
上杉はもとより徳川家康との和睦も成し遂げた。
その後、小田原に至り北条一門を討伐し、そのまま直ちに奥州討伐入りして、天下統一を実現した。
これらは、ひとえに〈賞を禄せよ〉と〈一以て貫けり〉という金言を忘れず、謀略なんのその、戦ならばこそと迷うことなく突き進んできたゆえである。
しかし、古今の名将と言われる人物たちを見ると、罰することが多く、論功を讃えることが少ない。
…賞罰は車の両輪とはいえ、当世は罰より賞を重くすべき時代である。
人間の欲深さは人にもよるが、一度は天下を得んと挑んだ武将たちに対し、些細なことまで私欲とみなさば、大望には至らぬ。
つまり、千章万句の軍法も皆、論功を賞して禄を惜しまぬことに尽きる。」
とおっしゃった。
へつづく
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