源さんが行く10
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
天明五年(1785年)の記録
源助38歳・宿老
宝暦(1751~64)から月改め銭は、16文だったが、12文に減額。
【1銭=12文】
餓死者の供養と開山・日柔の百年忌の名目で、本門寺の大乗妙典一石一字の塚がノッコロに築かれることになった。
本門寺の七世の日省が、餓死者の供養と開山の百年忌を営むために、大乗妙典一石一字の婢の建立を発願しました。
しかしこのの悲願は、日省が天明七年八月に七十一歳で遷化*1したため、八世の日慎に受け継がれ、
寛政十年(1798年)七月十五日の盂蘭盆に、餓死者供養塔がノロッコの塚に建てられ、供養法要を営み、大施餓鬼*2を行いました。
この碑は、明治になってノッコロから本門寺の門の前に移されました。
【大畑町史より】
安永七・八年(1779~80年)ころ、悪消*4の支配人だった、笠島荘治郎を召し出すようとの命があった。
検断*5の西田平八と共に(私も)付き添って、箱館の佐藤玄六郎*6の宿泊先に出向いた。
当時ロシア人と交易があったかどうか問いただされた。
兀古沙魚(コッコカシャ=ハゼ?)という魚がおびただしい量、流れ着いた。
蝦夷方面では佳賀茂古留倍という。
八月六日の風雨大浪で、湊の浜に漂昆布(よりこんぶ)が多くあがった。
これを外ヶ浜昆布として出荷しようしたが、
昆布局が許さなかった。
代官所の判断では、仕方ない。
疱瘡(ほうそう=天然痘)が大流行した。
天明五年の記録は以上になります。
僕が気になったのは、ロシア人との交易を問われた笠島荘治郎の一件です。
この数年後起こる、クナシリ・メナシの戦いに関係する事柄なので、
これからどのように動いていくのか、源さん視点で注目していきたいです。
天明六年
へつづきます。
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