こめいがねんど

むつ市大畑町と東津軽郡蓬田村の歴史や文化、たまに趣味のねんど作品を紹介する雑記ブログ

肉体改造

 

お世話になっております、シヨウx3です

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源さんが行く157

  

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

資料編・伊能忠敬のこと3です

 

享和二年(1802)の記録・資料編(3)

 伊能忠敬のこと(3)

伊能忠敬の測量は寛政十二年(1800)から始まりますが、幕府の計画は堀田仁助の場合と同様に船(政徳丸)に乗船して海上から陸路の方位を測りながら蝦夷地に渡り、帰路も船によるというものでした。

これに対して、

高橋至時は、伊能に海上測量の知識がないこと、長い海上航海は不得手であることを理由に、測量器具を減らしてでもいいので陸路通行にしてほしいと若年寄に上申した。

 四月、伊能は松平信濃守宅の寄合に呼ばれ、海路、陸路の問題点について尋ねられた。

伊能忠敬は、蝦夷地より奥州、常陸、上総、下総、房州(安房・あわ)を経て府内(江戸)まで海辺で北極緯度方位を連測すれば、海上測量と違い真の方位里数がわかる。

陸地通行となれば測量器具の数量、貫目を改め、人足は自分雇いで運びたいと答えた。

後日ふたたび幕府役人から自分で足し金しても蝦夷地測量を勤めるかどうかと確認された彼は、道中滞りなきよう御触れさえ出していただければ、自分入用をもって御用を勤めたいと述べ、求めに応じてその旨の書付を提出した。」

 

「人生五十年」といわれたこの時代に、五十歳から天文学の勉強をスタートさせ、五十五歳から七十一歳まで地球一周分の四万㌔を徒歩で計測測量してまわったその不屈の精神とパワーに驚きます。しかも多大な私費を投じてー。

源さんは大畑にやって来た伊能忠敬と直に言葉を交わし道具も見せてもらって、興奮しながら記録しているのでした。

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つづく

 

 

最初から読み直したい方は

源さんが行く01 - こめいがねんど

 

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源さんが行く156

  

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

資料編・伊能忠敬のこと2です

 

享和二年(1802)の記録・資料編(2)

 伊能忠敬のこと(2)

伊能忠敬が幕府の命により蝦夷地の測量に携わる直前の動きを見ておきましょう。

この論文には幕府御用船政徳丸のこと、大畑出身の長川仲右衛門のことも出ています。

 

 幕府は東蝦夷地の経営にあたり、会所(漁場など)運営、道路開削、橋新設、渡船場設置、宿駅・休所開設、人馬の配置、継送業務を確立させ、陸路を整備して人の往来を自由にし、迅速かつ大量の物資を移出入するため東蝦夷地へ直接海路を開くことを急務とした。

 寛政十一年三月末に海上輸送の第一陣として富山元十郎・松田仁三郎、水主同心組頭格(御用船政徳丸船頭)長川仲右衛門、水主同心露木元右衛門らの幕吏(ばくり=幕府役人)が御用船・政徳丸(千二百石)に乗船して品川からアッケシに海上試乗として出帆した。

この船は三月二十四日に品川を出帆し強風と濃霧に悩まされ、ユウフツ沖で樽前岳を見て北上、エリモ崎を廻って六月二十九日にアッケシ港に着いたが、三か月を要するものだった。

 幕府は東蝦夷地への直轄海路を開くことに強い執念を燃やしており、寛政十一年三月浦賀で神風丸(千四百六十石)を新造した。

この船により天文観測で方位を定めて、東蝦夷地へ直接航路を開こうとするものであった。

ただ、この船の水主・長川仲右衛門には天文観測の術がなかったので、これに長けた者を乗船させて海上から観測した測量図を作ることにし、津和野藩士・堀田仁助に目をつけた。

…六月二十七日、御用年神風丸は品川を出帆した。

天候に恵まれ途中仙台領や南部領に立ち寄りながら、八月に宮古に入湊した。

逆風のため二十日ほど日和待ちをしたが、二十五日には順風を得て出帆。

二十八日まで陸を見ることなく航海して二十九日には無事アッケシに到着した。

 これまでの航海は陸奥地方と蝦夷地の沿岸を目視しつつであったが、今回は宮古から東蝦夷地への外洋航路が開かれたことを意味する

わずか五日間の船旅であった。

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 つづく

 

 

最初から読み直したい方は

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源さんが行く155

  

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

 原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは

  江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。

 

今回から数回にわたって、意訳されている佐藤ミドリ先生がまとめられた資料編よりいろいろな資料を紹介したいと思います。

 

享和二年(1802)の記録・資料編(1)

伊能忠敬のこと(1)

伊能忠敬は1745年に生まれ、1818年に亡くなった江戸後期の測量学者です。

五十歳のときに家業の酒造業から隠居し、それを機に江戸に出て天文学を学び、五十六歳を過ぎてから自分の肉体をメジャーに十七年間かけて全国を歩き回り二百枚余りの「大日本沿岸奥地(よち)全図」を完成させています。

実は、地図をつくること以上に関心があったのは、

「この地球の直径はどのくらいなのか」

の疑問にたいしてその答えを見つけることでした。

インターネット配信されている堀江敏夫氏の論文から紹介します。

 

伊能忠敬蝦夷地測量には二つの意味があった。

その一つは恩師・高橋至時(よしとき)に指摘された子午線の長さ*1を求めようとするものであり、

もう一つは幕府の東蝦夷地の直轄支配に伴う警固のため精密な地図をつくることであった。 

 

源さんは大畑は北緯四十一度という伊能忠敬の言葉を風土年表に記録しています。

天文学にも関心のあった源さんにはその言葉の意味が理解できたのでしょう。

ちなみに北緯四十一度にある世界の都市にはニューヨーク、イスタンブールマドリードなどがあります。

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つづく

 

 

最初から読み直したい方は

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第四集の最初から読みたい方は

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第七集の最初から読みたい方は

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第八集の最初から読みたい方は

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第九集の最初から読みたい方は

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*1:経緯一度の南北の長さ

テストステロン2回目注入

 

お世話になっております、シヨウx3です

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おおはたまちができるまで~南部のはなし~73

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

南北朝時代の南部氏と北畠顕家のはなし、その6です。

 

 根城南部氏五代の誠忠

帰路についた北畠顕家(3)

小高城が落ちた延元元年五月二十五日は、ちょうど「湊川の戦い」で楠木正成が、東上してきた足利軍に敗れ自害をした日です。

そして二十七日には後醍醐天皇はまた比叡山に逃れ、二十九日には足利軍は京都を占領しました。

六月には天皇方の千種忠顕名和長年も京都を攻めましたが、敗れて戦死をしました。

こうして南朝重臣が次々に倒れ、北朝の勢いはますます盛んになります。

だが天皇はあくまでも望みを捨てません。

また顕家も決して力を落とすようなことはありませんでした。

 

小高城を破った顕家は、激戦と旅の疲れで弱ってはいましたが、ようやく五月の末に多賀の国府に着きました。

「三翁昔語」には、

「御帰府のこと、信政君も御供をし、つつがなく下着なさる也」

と書かれています。

糠部軍を率いた信政は、中央軍と共に何回となく激戦を重ねて、戦死者や負傷者も出たのでしょうが、とにかく無事に多賀に着きました。

またこのとき多賀を守っていた師行もお祝いのため、数か月国府に逗留したといわれています。

おそらく顕家に留守中の報告なども詳しくしたのでしょう。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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 つづく 

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

 

おおはたまちができるまで~南部のはなし~72

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

南北朝時代の南部氏と北畠顕家のはなし、その5です。

 

 根城南部氏五代の誠忠

帰路についた北畠顕家(2)

顕家は三月下旬、再び奥州勢を率いて東海道を下ることにしました。

あの意気盛んな上京の時とは違って、戦死した者も多く、傷ついた者もあって、それは寂しい帰途であったに違いありません。

その上これまでいつも顕家を指導してきた父・親房も、この時には病気のために同行できませんでした。

しかし鎮守府大将軍となって、奥州を守らなければならない顕家は、ここで弱気になってはいられません。

帰る途中には多くの足利勢が待ち受けています。

関東に足を踏み入れた顕家軍は、早くも四月十六日鎌倉を出て藤沢市片瀬川に陣をしていた斯波家長軍の厳しい攻撃を受けました。

しかし激戦の末、敵の主力である相馬重胤(しげたね)と、同じ一族の胤康(たねやす)を討ち取って、まず奥州入りの第一戦では顕家が勝利を納めました。

鎌倉軍を破った顕家は、宇都宮から海道を通り、多賀の国府に帰ることにしました。

この沿線には小高城があり、「片瀬川の戦い」で討ち死にをしたあの相馬重胤の次男・光胤(みつたね)と、長男の子・松鶴丸らが守っています。

しかし相馬郡の多くは鎌倉に出陣していたので、留守の兵が少なく、光胤は討ち死にを覚悟して、松鶴丸を城から逃し、五月二十五日わずか一日の戦いで小高城は落城しました。

【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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 つづく 

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

 

おおはたまちができるまで~南部のはなし~71

 

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どうも、しょうさんの息子のゲンです。

 

南北朝時代の南部氏と北畠顕家のはなし、その4です。

 

 根城南部氏五代の誠忠

帰路についた北畠顕家(1)

尊氏が京都を落ちていったので、天皇はさっそく京都に帰りました。

そしててがらのあった奥州の結城宗宏ほかの者に、それぞれ賞を与えました。

顕家が参議従二位、鎮守府大将軍に任ぜられ、またこれまでいつも顕家と苦労を共にしてきた義良親王も、元服をして「陸奥大守(おおのかみ)」となり、顕家は「陸奥大介(おおのすけ)」になりました。

「大介」というのは「大守」の次で、陸奥守の上の位です。

 

こうして官軍の将兵がほっとしたのもつかの間、九州に落ち延びていった尊氏は、たちまち西国で大きな勢力を得て、早くも延元元年(建武三年/1336)四月三日には博多を出発して東上をはじめました。

この尊氏東上の情報が伝わるとまた関東・奥州方面でも、足利方に味方する者が多くなりました。

斯波家長が、鎌倉で、尊氏の長男・千寿丸をたてて足利勢を集め、岩手県紫波では斯波氏の一族・兼頼が中心となって、足利方をまとめていました。

福島県相馬郡でも兼頼の命令により、相馬光胤が小高城(常盤線沿線の小高町付近)を築き直し、兵糧を蓄えて長期戦の準備をしていました。

多賀国府の膝元でさえも留守家任(るす・いえとう)が、はじめ西上軍に加わって上京しながら、途中で心変わりして足利方についています。

 

関東や奥州がこんな状態でしたので、顕家は京都にいてゆっくりしているわけにはいきません。

天皇は顕家に「さっそく奥州に帰り、陸奥を鎮めるように」と命令を下しました。

 【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】

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 つづく 

 

蓬田村の古代 よもぎたむらができるまで01

大畑町の古代 おおはたまちができるまで01

アイヌルーツ よもぎたむらができるまで04

蝦夷の反乱  よもぎたむらができるまで10

奥州藤原氏  よもぎたむらができるまで27

大河兼任の乱  よもぎたむらができるまで46

南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1

 

 

番宣

 

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