源さんが行く154
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの享和二年の記録7です。
享和二年(1802)の記録・其の七
■シコタン(色丹)島は周回四十里(百六十㌔弱)あり、ノシャップ(納沙布)峠から十六里(六十余㌔)、タラク(田楽)島へ一里(四㌔)、シボツ(市発)島と水晶島へは二里(八キロ)、クナシリ島へ二十里(八十㌔)の距離である。
これまでは根室の蝦夷人が交易を行ってきたが、今年、幕臣の関谷茂八郎がこの島に渡り、和人化教育を行った。
島の四隅には大船を繋ぐ入り江もある。
この島では磁器の絵付けに用いる青石*1を産出するという。
めくら姥(うば)が突然に亡くなった。
この姥が言い伝えてきたことであるが―
血の患いにカミシソ(紫蘇)もブナ皮もトトキ*2も効く。
打ち身には松葉もツタウルシもオトキリ*3も効く。
中痺(中風)にはトトキも桑瘤*4も黒松の松脂も効く。
切り傷にはアオジシ(カモシカ)の角も、アカツタ(紫苧)も、コイカノコウ*5も、黄檗(きはだ)もイケマ*6も効く。
下痢には硬飯(こわいい)も、カタクリも、ニワユリ(象山貝母)も効く。
便秘には林檎も、胡桃も効く。
とげ抜きにはハシバミも、鳳仙花も、甘草(カンゾウ)も効く。
乳腫れにはアオチサの実。
腹部の腫れにはゴボウカブサ。
霍乱*8には桃の葉。
火傷にはニワトコ。
水腫にトウゴボウ(やまごぼう)も、大根の汁も効く。
毒虫刺されにハルウタ草*9も、ドクダミも、メナモミ*10も効く。
黄疸にはシジミ貝も、通草(アケビ)も、クチナシも、カニラヨモギも効く。
麻疹にはイチゴも、灯心草(イグサ)も、甘草も効く。
目星(角膜炎)には山椒の実。
虫歯には大根の汁も、松房*11も効く。
石竜(トカゲ)や蛇には棕櫚を燻き上げる。
気のゆるみに辰砂、乳香、蔓藤。
幕府役人が佐井へ向かった時、馬継ぎの場に下風呂からの迎えが来ていなかった。
イライラしながら待っていると、里長の文治がようやく姿を現したので、槍の鞘をはずして突き出すと、百メートル先までぶっ飛んで逃げた。
以上、享和二年前半の記録でした。
本来なら次回第十一集に突入するのですが、あと数回、
原始謾筆風土年表・資料編から紹介していきたいと思います。
つづく
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源さんが行く153
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの享和二年の記録6です。
享和二年(1802)の記録・其の六
■様似に船玉の社を建てられた。
船玉様(ふなだまさま)というのは、大坂の住吉神社の三神*1とも、京都鞍馬の貴船神社の祭神とも、猿田彦命(さるたひこのみこと)とも、弁財天とも、無理にこじつける向きがある。
中国では関羽の霊とも、太道公(老子)とも、張天師*2とも、好禳娘(アマノニャンニャ)とも言われる。
福建の林氏の娘が海で溺れた時に神が現れ助けてくれた。
このことから海路の安全を守る天妃(てんぴ)とも阿媽(あま)菩薩とも呼ばれるようになったという。
しかし、まさか薩摩で野間権現*3として信仰され祀られているとはよもや思わなかった。
天妃は大間の里に祀られ、蛇浦にも勧請されている。
中国船が長崎に入港した折、船神を信仰し寺に仮安置した。
行列には幟、金鼓*4、燈籠、傘。
途中、所々で種々の棒術を披露した。
出船の時にも同じような行列を行ったという。
オランダ船は六大州や島々の方位を細かく記した地図を持ち、新造船には老人夫婦の本物の髪を使った人形を二箇とサイコロ二個を乗せている。
一天地、六舳*5、三合艫、四合中二を合わせる片五は船の例である。
天の岩樟船*6は、天然のクスの木を用いたものか。
神武天皇は日向から船に乗り、何日間かで吉備の高島に到着したというが、大昔のことなので真偽のほどはわからない。
崇神天皇十七年には全国各地で造船がはじまった。
応神天皇二年には伊豆で十丈(三十㍍)の船を造らせたが、三十一年して朽ち、枯れ野の船と名付けて燃やされた。
燃え残った材で琴を作らせたともいわれる。
建保四年(1216)には源実朝公がぜひ宋の国を訪れたいと、宋の陳和卿*7に命じて船を造らせたが、船が重く朽ちてしまった。
「豊漁、安全、女神に祈り」
海の日の七月二十一日、大間町で航海の安全や漁業を守る女神「天妃様」行列と大漁祈願祭が行われた。
行列は午前十一時、大間稲荷神社を出発。
神楽を先頭に、極彩色の人形や大間中生徒による龍舞踊が、ドラや爆竹を響かせながら町内を練り歩いた。
行列に先がけ、大漁旗をはためかせた漁船が一斉に沖合に出て神楽を奉納。
御礼を海に沈めて安全と豊漁を祈った。
天妃様信仰は中国、台湾、東南アジアに広がり、台湾では媽祖様と呼ばれる。
東北地方では唯一、大間稲荷神社に祀られており、遷座三百年を祝った一九九六年から、行列と大漁旗願祭を同時開催している。
行列のトリを飾るヤグラに鎮座する天妃様は本尊の分身で、他の人形などとともに台湾の姉妹宮から贈られた。
【東奥日報二〇〇八年七月二十二日付より】
つづく
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江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの享和二年の記録5です。
享和二年(1802)の記録・其の伍
ネギに葉虫が大発生
「蝦夷地の件については以前より進退を決し、東蝦夷地を当分の間、幕府御用地としてきた。
このたびは永久の上地*1を申し渡された。
西蝦夷地については、これまで通りとするとの仰せである。
なお、この件については厚き心をもって申し渡すよう仰せられたので、その意を受け止めよ。
七月二十五日 戸田采女正(うねめのかみ)」
「このたび、東蝦夷地が正式に幕府直轄領となるにつけ、毎年三千五百両を下された。
なお、これまで仮上地の御用地の代償として渡してきた代金や、武州久喜町(現・埼玉県内)の管理料、並びに東蝦夷地からの収益分として渡した御金は今後ないものとする。
その旨、若狭守(松前藩主)には伝えてある。
その意を受け止めよ。」
以上のことは、江戸城の波月の間において御老中各位の列座の場で、戸田采女から松前藩の堀三左衛門に対し申し渡された内容である。
北辺へのロシアの進出に対応するため、幕府は蝦夷地取締御用掛に代えて蝦夷奉行設置を内定し、小納戸(こなんど)戸川安論(やすとき、四十二歳)と目付・羽太荘左衛門正養(まさやす、五十一歳)の二名を任命した。
一七九二年のラクスマンの根室来航をきっかけとして、幕府は一七九九年に東蝦夷地を仮上知して直轄地として以来、蝦夷地取締御用掛に支配させるとともに、これからの蝦夷地経営の在り方を検討してきた。
一八〇〇年の蝦夷地巡察をもふまえ、前年には、三奉行らに蝦夷地経営の意見書提出を命じていた。
これらを検討した幕閣は、ロシアの進出に対応するため上知の必要性を確認し、蝦夷地全体を上知するか、東蝦夷地のみを上知するか、将軍家斉に裁断を仰いだ。
その結果、家茂は、東蝦夷地のみの上知を決定し、今回の決定となったものである。《正式決定は七月二十四日》
五月十一日に奉行の名将は箱館奉行と改められる。
初代奉行の任に就いた戸川安論は先の蝦夷地巡察を勤め、羽太正養も一七九九年より蝦夷地取締御用掛に携わっており、いずれも事情に精通した適任者。
松前藩主松前章広には、上知の代わりに年三千五百両が与えられることになる。
しかし、一七九九年の仮上知以来支給されていた東蝦夷地配分金などは廃止となり、西蝦夷地の統治に専念するよう命じられる。
【原始謾筆風土年表・資料より】
つづく
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*1:あげちorじょうち、上知とも表記
源さんが行く151
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
源さんの享和二年の記録4です。
享和二年(1802)の記録・其の四
■役小角*1没後一〇九九年を千百年と数えて、大坂の箕面山(みのおさん)で法要を行った。
八幡宮を修理
■大阪で大洪水
川内で火事
本門寺裏門近くの池の岸で犬と狐が仲良く遊ぶのを何度か見たことがあると思っているさなか、狐は犬にかみ殺されてしまった。
■植崎九八郎が書いた書物の中に、佐賀藩主が少将に任ぜられた祝いに執政(幕府老中)松平伊豆守(信明=のぶあきら)に贈られた国広(江戸初期の刀工)の名刀に触れた記述がある。
孔雀の文様に鮫皮の柄。忠吉の脇差には富士見の文様。鮫皮とは茗荷鮫や蝶鮫の類だろうか。
摺り剥ぎ刻み鞘、左巻きひかえ鞘、鮫鞘*2、菊封*3、縮緬、海鼠、虎毛(とらふ)鮎、鮫凝鮫岩石、鰄*4、酢貝*5、親鮫、にらみ鮫、浮木鮫、抜き鮫、植鮫。
柄巻*6には大菱、小菱、双捻(もろひねり)、片手巻、篠巻、胡麻皮片捻りなど。
同書の中に辺境の要害の備えを論じた新井白石著「折焚く芝の記」(白石の自叙伝)に対する山下幸内の「筆の諫め*7」にも触れていたが、これを読んで私(源助)は憤懣(ふんまん)やる方ない思いがした。
植崎九八郎
江戸後期の下級幕臣。 寛政の改革を遂行した老中松平定信は武士から農民まで各層から提出された上書をその政策に取り入れた。なかでも植崎九八郎が天明七年(1787)に提出した上書は、江戸施政に関する意見を中心に多岐にわたり、当時の世評では一番の上書とされた。
また、享和一~二年(1801~02)には、老中時代の松平定信の施政、老中首座の松平信明の施政を痛烈に批判する上書も提出した。これは、寛政期の幕政、社会状況を理解する上で重要な史料である。
【原始謾筆風土年表・資料より】
つづく
最初から読み直したい方は
第二集の最初から読みたい方は
第三集の最初から読みたい方は
第四集の最初から読みたい方は
第五集の最初から読みたい方は
第六集の最初から読みたい方は
第七集の最初から読みたい方は
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おおはたまちができるまで~南部のはなし~70
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
根城南部氏五代の誠忠
第一回奥州軍の西上(3)
京都に向かった顕家軍五万は夜を日についで急ぎましたが、近江(滋賀県)に着いたときは、すでに尊氏が京都に入った二日後の一月十三日でした。
京都を守っていたのは新田義貞、弟の脇屋義助、楠木正成、名和長年らの軍でしたが、さすがに勇将の率いる官軍方は強く、一時は優勢でした。
しかし讃岐(四国・香川県)から駆けつけてきた細川定禅や、播磨(兵庫県)の赤松範資らの大軍が背後から手薄な脇屋義助の陣を攻めたので、守備陣の一角が崩れ、ついに天皇は比叡山に難を避け、尊氏が京都を占領したのです。
その後二日して奥州軍が近江に着いたので、天皇をはじめ官軍の将兵たちも、どんなに心強かったのでしょうか、歓喜して顕家軍を迎えたということです。
さらに先に尊氏を討つため、東山道に派遣されていた洞院実世の軍も信濃から近江に引き返して一月二十日坂本に着きました。
五万の奥州軍は三日もかかり、船で琵琶湖を渡り東坂本の行在所に参上したということです。
八歳に成長した義良親王と、しばらくぶりで対面した天皇は、感慨無量なものがあったのでしょう。
従軍した南部信政は、近江の観音寺を攻めて佐々木氏頼を破り、さらに細川定禅軍の三井寺で戦いました。
勢いに乗った官軍は、激戦の末、各所で足利軍を破り、ついに一月三十日尊氏は夜にまぎれて京都を脱出し、船で遠く九州に逃れました。
これまでエミシなどと侮られていたみちのくの兵が、天皇のために大いに働き勝利をおさめたということは、これがはじめてであり、また最後でもあったのです。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
[rakuten:hotateyasan:10001721:detail]
おおはたまちができるまで~南部のはなし~69
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
根城南部氏五代の誠忠
第一回奥州軍の西上(2)
弟・脇屋義助の軍が尊氏軍に敗れたことを聞いて、義貞の陣中からも逃亡する者が多く、義貞の軍はいったん伊豆の国府(三島市)まで退き、ここで残った兵をまとめて、京都に引き返すことにしました。
尊氏は続いて国府に入り、直義と今後の対策を協議しましたが、結局これを追撃することにしたのでした。
遅れて駆けつけた顕家軍は、その尊氏の後を追い、さらに奥州探題に任ぜられていた斯波家長も、その顕家軍の後を追いかけて、四者の追撃戦になりました。
その頃は奥州もまた尊氏に従うものが多く、油断できない状況でした。
それで顕家は、師行には多賀の国府を守らせ、政長には北奥を守るようにと命令を出しました。
そしてこの西上線には、政長の子・信政が従軍をしています。
南朝方の糠部軍が西上したことを聞いて津軽の北朝勢もさっそく動き出しました。
建武三年(1336)一月七日、南津軽郡の藤崎城と東津軽郡の平内城を守っていた南部政長、成田六郎左衛門尉らを曽我貞光(光高の改名)が、安東家季や比内(秋田県大館)の浅利清連らと共に攻撃をしてきたのです。
だがこの戦では政長の奮戦により、貞光は左ひざに矢傷を負わせられ敗退しています。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
[rakuten:hotateyasan:10001721:detail]
おおはたまちができるまで~南部のはなし~68
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
今回からは南北朝時代の南部氏と北畠顕家を中心に紹介していきます。
根城南部氏五代の誠忠
第一回奥州軍の西上
「中先代の乱」のあと、北条時行から再び鎌倉を奪い返した尊氏兄弟はそのまま鎌倉に居座り、天皇の命にも従わず謀反の態度を明らかにしました。
さらに建武二年一月の下旬には、新田義貞を討つためと称して、諸国から兵を募りました。
そのころ後醍醐天皇も、足利直義のために、皇子護良(もりなが)親王が殺されたことを知って大いに怒り、尊氏討伐の軍を派遣することにしました。
東海道と東山道の二軍に分け、東海道には尊良(たかなが)親王と新田義貞を、東山道にはシヨウ王と洞院実世(とういんさねよ)を大将とし、さらに奥州の顕家にも使者を送って、三方から鎌倉を攻めることにしました。
そしてこれまで尊氏に与えられていた官位は一切これを取り上げ、顕家は鎮守府将軍に任ぜられました。
三方から挟み撃ちをする作戦をたてたのですが、なにぶん京都からは遠い多賀ですので、使者の到着が遅れ、そのうえ奥州には、尊氏に心を寄せる者も多く、兵を集めるにも苦心をして、奥州軍の出発が遅れ、ついに両軍の決戦には間に合いませんでした。
途中には常陸(茨木健)に強力な佐竹軍がいて道を遮っていたのです。
ようやくこれを破り、鎌倉に入った時にはすでに鎌倉には足利勢はいませんでした。
尊氏は、はじめ討伐軍の情報を聞いても、しばらくは鎌倉にいて、戦の様子をうかがっていました。
東海道を下ってきた義貞の軍六万七千余のために、十二月五日直義軍が敗れたのを聞いて、ようやく動き出しますが、わざと東海道を避けて大軍を率いて芦ノ湖の北にある足柄峠に向かいました。
この方面には義貞の弟・脇屋義助の軍が進軍中でしたが、尊氏の大軍に遭い、十二月十一日「竹の下の戦い」で苦戦に陥り、その上味方の陣から尊氏に内通する者が出たため、前後から挟撃を受け、ついに十二日大敗してしまいました。
【参考引用文献/物語 南部の歴史・中世編】
つづく
大畑町の古代 おおはたまちができるまで01
蝦夷の反乱 よもぎたむらができるまで10
南部のはなし おおはたまちができるまで~南部のはなし~1
[rakuten:hotateyasan:10001721:detail]