源さんが行く04
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
天明の飢饉の苦労がつづきます。
原始謾筆風土年表とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
天明三年(1783年)の記録・其の弐
津軽米の買い入れができなくなる
全国あちこちから船が積み廻り、問屋それぞれに売買が任されていて、少しずつ売り出している。
今年の夏は曇りつづきで、この先どうなるかわからないので、米の買い入れがますますむずかしくなってきた。
田名部から一駄*1から二駄ようやく買い求める状況である。
米を生産できる地域がほとんどなかった大畑にとって、
普段の食事の中での米の割合はどのくらいのものだったのでしょうか。
それにこの大飢饉ですから、読んでいるだけでつらくなってきます。
大畑では地元の船ばかりだけでなく、
伝吉丸(堺伊兵衛船・デンポ)
万福丸(堺紋兵衛船・サカイヤ)
大慶丸(飛騨屋船・タケカワ)
正徳丸(楠原彦兵衛船・スワラ)
といった、よその船も雇って新潟に差し向けた。
秋になると航海が厳しくなる中でも、百石船を酒田や秋田へ差し向けた。
おかげさまで無事に湊に帰ってきて胸をなでおろした。
十月下旬になると、雪が降り、ワラビ小屋から戻るところを、ほかの地域からきた大勢の物乞いに囲まれることもあった。
代官所の下級役人が突然やってきて、倉に封をしてしまった。
五日後、蓄えてあった米、酒、雑穀の検査を代官所役人が行った。
十一月に入ってなんとか米百俵を買い上げて、
代官所の命令により、すべて東南の村々に分け与えることになっていたが、
雪が降り積もっていて、新堰(にいぜき)のあたりで馬ぞりから落ちて雪まみれになりながらも、なんとか半分は近くの村々に売り渡してほしいと、田名部代官所に訴えて、通すことができた。
●百文で精米四合から三合に減る。
●昆布一把が百文から百二十文に値上げ。
●義倉の稗は十月中にすべて分配してしまった。
雑穀や魚かすが都の人たちの食べ物になっていると聞く。
我らとて同じで、悲しみと憤りのあまり涙が出る。
苦労の時期はまだまだ続き、一向に光が見えてきません。
へつづく
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ミーコ
どうも、しょうさんです。
青森はだいぶすごしやすくなってきました。
というか朝晩になると寒いくらいです。
夏のうちは暑すぎて動きたくないのですが、
このくらいの気温になると私は夏の分もまとめて運動したくなります。
そんな運動がてらのエピソードです。
20代も半ばを過ぎて、明らかに運動不足だなと感じてた稲刈りシーズンのころ
会社から帰ってから走ることにしました。
当時、青森市内の広告制作会社に勤めていたので、どんなに車で飛ばして帰ってきても、蓬田の実家までは30分はかかりました。
家に着くのはだいたい午後7時。
それから着替えをして、晩飯も食べず、とにかく走りに行きました。
もうこの時期だと7時を過ぎれば暗くなってきてましたが、
住み慣れた場所なので、ライトが無くても気になりません。
津軽線の線路沿いにある家から、線路をこえて、山に真直ぐ伸びた道路をひたすら
黙々と走ります。
道路の両側は田んぼで、虫の鳴き声が所々から聞こえてきます。
15分ぐらい真直ぐ走ると、アスファルトが土の道に変わるところがあり、
そこでUターンして、
今度は家を目指して、月の出ている夜などは、真下に月の光で見える海を眺めながら、走って帰ってきました。
30分ぐらいで戻ってくると、今度はマイバットで素振りをします。
別に草野球チームに入っているわけでもありませんでしたが、
マイバットとマイグローブを持っていました。
(ウィルソン/ヤクルトスワローズ・池山モデル)
100~150回ぐらい素振りをしたら終了です。
それからシャワーを浴びて、晩飯を食べるのですが、このときのビールがウマい!
たぶんこの瞬間のために走っていたんだと思います。
そんな走ることが当たり前になったころ、
家で飼っていた猫のミーコが、あまりなついてこない私の後を珍しくついてきました。
(まぁ途中で飽きて帰るだろう。)
と最初のうち気にしないで走っていましたが、
ミーコはなかなか帰ろうとしません。
そのうち、「犬か!」と突っ込みを入れたくなるくらいハァハァと息をきらしながら、
それでもついてきます。
さすがに心配になった私は、途中で切り上げることにして、
ヘロヘロになったミーコを抱きながら戻ってきて、速攻、水を飲ませました。
まさにイヌ状態の飲みっぷり。
そりゃそうだよな。家の周りから出たことのないミーコに、
帰れっていったところで、帰れるわけがないから、ついてくるしかないわけで…。
ミーコには、つらい思いをさせちゃいました。
でもなんで珍しくついてきたんだろう?
ちなみにミーコは数年後、自分の死期を悟ったのか、
突然私たち家族の前から姿を消しました。
実家では今も猫を飼っていますが、
私の中では一番思い入れのある猫、ミーコの話でした。
よもぎたむらができるまで14
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
政府と蝦夷の戦いはさらに泥沼化していきます。
蝦夷の反乱3
784年(延暦3年) 大伴家持(やかもち)を持節征東将軍として征夷軍を立ち上げますが、
家持の死去や、藤原種継暗殺事件などがあり、自然消滅。
786年(延暦5年) 本格的に準備を始める
788年(延暦7年) 将軍・紀古佐美(きのこさみ)以下の征東使を任命
789年(延暦8年)3月 多賀城に集結した坂東諸国*1の歩兵騎兵5万余の一部を北上して、衣川の北側(岩手県奥州市衣川)に軍営を敷きます。
しかし今回もなかなか行動をはじめません。
しびれをきらした桓武天皇の叱責を受けてようやく動き出し、
3つの小部隊が北上川の東西両岸から河東の蝦夷の拠点を挟撃する作戦に出ます。
そこに登場するのが「三十八年戦争」蝦夷側の最大のヒーローアテルイ(阿弖流為)です。
川の東に渡った官軍の一部隊はアテルイの居場所を攻め、逃げる蝦夷軍を追って進軍します。
しかしそこで山中に隠れていた蝦夷の別部隊の急襲にあい形勢逆転。
西岸を北上してきた別部隊が蝦夷軍に渡河を遮られるなか、
川東の軍は総崩れとなり、
兵士たちは北上川に飛び込み1036人もの溺死者を出しました。
アテルイらによる巧みなゲリラ作戦の勝利です。
古佐美はそのあと桓武天皇に対し、胆沢をすでに制圧し、子波(しわ・志波=盛岡市付近)や和我(わが=北上市付近)へさらに進軍するには兵量が不足していることを理由として軍の解散を報告し事後承諾を求めます。
実態とかけ離れた報告に桓武天皇は激怒します。
古佐美は別部隊による三陸沿岸部での軍事行動の戦果を報告に加えましたが、
桓武天皇の怒りはおさまりませんでした。
へつづく
(参考引用文献/佐藤信編「古代史講義【戦乱篇】」)
*1:関東地方の古称
よもぎたむらができるまで13
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
774年(宝亀5年)7月 陸奥国の海道蝦夷が桃生城を襲撃して西郭を破りました。
「三十八年戦争」のはじまりです。
蝦夷の反乱2
770年(宝亀元年) それまで国家に服属していた蝦夷の宇漢迷公宇屈派宇(うかんめのきみうくつはう)が一族を率いて突然「賊地」に戻り、城柵襲撃の予告をしました。
これを聞いた陸奥按察使*1、大伴駿河麻呂は光仁天皇に征夷実施の許可を得ます。
しかし桃生城欠落後、駿河麻呂は征夷の撤回を申し出ました。
現地の官人たちには征夷に踏み切ることへの迷いがあり、戦火が拡大することを懸念していたそうです。
結局、駿河麻呂は陸奥国遠山村(宮城県登米市付近)を制圧し反乱は一度は鎮まりますが、戦火はやはり急速に広まっていきます。
776年(宝亀7年)4月 陸奥国司は2万人の兵で山道・海道蝦夷を攻撃
出羽国(山形県と秋田県)も雄勝村から4000人の兵で山道蝦夷を攻撃。
しかし出羽の官軍は志和村(盛岡市付近)の蝦夷の攻撃に遭って苦戦。
11月 再度陸奥国は胆沢の賊を攻撃。
もう東北は戦国時代でぐっちゃぐちゃです。
アッチが出ればコッチも引かない。
そんな状況ですね。
780年(宝亀11年)春 宝亀の戦のさなかに死去した駿河麻呂の後任として按察使となった紀広純(きのひろずみ)は
伊治城の北方に覚鱉城(かくべつじょう)という新たな城柵を造る計画のため、
上治郡の大領、伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)や牡鹿郡の大領、道嶋大楯(みちしまのおおたて)らを引き連れて伊治城に入ります。
呰麻呂は伊治城付近に地盤を持つ蝦夷系豪族でしたが、山道蝦夷との戦いで、官軍側として功績をあげ、上治群大領(長官)になった人物です。
その呰麻呂が反乱を起します。
彼は普段から夷俘*2と侮蔑していた道嶋大楯を殺害し、配下の蝦夷とともに広純を殺害。
その後南下して、多賀城を襲い、兵器・粮米を略奪後火を放ちます。
政府は藤原継縄(つぐただ)を征東大使に任命しますが、
なかなか軍事行動を開始しないため、
しびれをきらした光仁天皇はあらためて藤原小黒麻呂(おぐろまろ)を大使に任命しますが、
こちらも征討の延期を申請し、とうとう翌年5月に軍を解散してしまいます。
現地はもはや容易に軍を動かせる状況ではなかったようです。
呰麻呂の事件とともに、吉弥候伊佐西古(きみこのいさせこ)もまた離反し征東使から賊中の頭となり、
差別を受けつつ服従・協力を余儀なくされた境界領域の蝦夷たちも離反しました。
しかも反乱に協力した者の中には、蝦夷だけでなく移民系の人たちもいたということです。
政府の強引なやり方は、ますます事態を深刻化させていきます。
蝦夷たちは新しい国を作ろうと必死っだったんだと思います。
「三十八年戦争」はまだまだつづきます。
へつづく
(参考引用文献/佐藤信編「古代史講義【戦乱篇】」)
素材としての似顔絵03
どうも、しょうさんです。
今週の素材としての似顔絵です。
正直リアルタイムで見ていた時期はガンダムが嫌いでした。
マジンガーZに比べれば、あまりにも色を使いすぎているのと、顔が派手に思えて、これはロボットじゃない。と小学生のころは感じていました。
だからその後に放映された伝説巨人イデオンには、即はまりました。
(ただ、中学生になってから上映されたTHE IDEONの映画を観にいった後は数年間、えげつない内容にトラウマになりましたが…。機会があったら見てみてください。)
安彦氏が気になりだしたのは、中学生になって、アリオンという安彦氏が描いた漫画を見てからでした。
その画風に一発で虜になりました。
こんな絵を描いてみたい。
即そう思いました。
何かが、それまで見てきた漫画と違うものを感じました。
のびのびとしているというか、コマの中で自由に動いているというのか。
だいぶ後になってから知ったことですが、安彦氏は、キャラクターはもちろん、コマの線まで筆で書いていると知ったときは、鳥肌モノでした。
私が一番影響を受けた漫画家といっていいと思います。
私は漫画家ではありませんけど。
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源さんが行く03
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どうも、しょうさんの息子のゲンです。
原始謾筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)・第3回を始めます。
原始謾筆風土年表とは
江戸時代の下北地域の政治・経済・文化を、近江出身で大畑にて商業に従事した村林家の二代目源助(通称)によってまとめられた記録です。
天明三年(1783年)の記録・其の壱
村林源助 36歳/宿老(しゅくろう=高官)
二日前から激しい噴火の様相を見せていた浅間山が、大音響とともに爆発。幅50m、高さ1,000mにも及ぶ火煙を噴き上げた。
大爆発とともにあふれ出た溶岩は、秒速100mの巨大な火砕流となって上野我妻郡鎌原村(現・群馬県つまごい)を飲み込み、村人596人中、466人が死亡。
流れ出した火砕流は我妻渓谷になだれ落ちて各所で川をせき止めて、鉄砲水が川下の村々を押し流した。
被害が五十五ヶ村に及び、子供を抱いた死体や、首や手足のない人馬の死体が、壊れた家屋・家財とともに利根川、江戸川下流に流れ着いたという。
江戸幕府はこの時の死者を約二万人と「徳川実記」で発表している。
また、この噴火は北半球に異常気象をもたらし、ロンドンではきれいな朝焼け・夕焼けが観測されたという。【日本全史より】
子供を抱いたままとか、首や手足がない死体って…。
しかもそれが川から流れてくるって…。
まさに地獄絵図です。
この時、勢州(三重県)桑名の湛道(たんどう)というひとが阿弥陀経について講和した。
知誉白道幡随(ばんずい)がキリシタン成敗の話に、満座の人々が聞き入った。
またこの僧は庭園づくりも行っていて、その折のことであるが、
小石を中指と人差し指、薬指の間にはさんで、
手のひらを石の上に置き、
右の手のひらを斜めにして打つと、
なんと挟んだ小石が割れた。
その瞬間の表情の鋭かったこと。
熟練者の技もここまで来ればたいしたものである。(源さん談)
〇六月、鳶(トビ)の死骸がたくさんあった。
〇安渡海(むつ湾)でホタテ貝がたくさんとれた。
〇宝国寺の榧(かや、いちい、オンコ)の実が、例年は数粒なのに、今年は数千粒熟した。
〇山中や野原の笹の実も、例年はたまにあるだけなに、今年は実ること甚だしい。
★梅雨の長雨による曇り続きで、土用(7月20日~8月7日)に入っても東風(ヤマセ)が吹き止まず、世の中が物騒になり、人々の中に不安が広がった。
七月末ごろから飢渇(ケガヅ=飢饉)の様相
海藻は取り尽くされ、山菜はもちろん、葛の根、ワラビの根、ヨモギの類まで根を掘り集めて、手間ひまかけてデンプンを取り、食用とした。
もう、生きるのにみんな必死なのが伝わってきます。
食料は毎朝採りに行ってたんですかね?
仕事には採りに行ったあとにいってたのかな。
家族に頼んで、自分は仕事にいってたのかな。
でも大畑の人みんなが採りに行ったら、
食材がすぐ無くなっちゃうんじゃないかな。
いろいろ考えちゃいます。
なんにしても必死です。
次回も大畑のひとたちの苦労が続きます。
へつづく
バーベキュー~後編~
どうも、しょうさんです。
バーベキューの話のつづきです。
何を血迷ったか、電気を消して居間に入ってきた人は、
女子3人のうちのひとりでした。
「どうした?」
「ちょっと寒いから、隣で寝ていい?」
「い、いいけど、狭いよ。」
と言うか言わないかのうちに彼女は隣に横になって私のタオルケットを引っ張ってしまいました。
(オオ~イ‼)
なんだコレ。
俺はいったいこれからどうすればいいんだ?
寒いっつてたよな。
優しくそっと寒くないように抱きしめてやればいいのか?
それともただ単に俺を誘ってる?
じゃあ強引に抱きしめればいいのか?
イヤイヤ、ちょっと待て。
隣の部屋に友達連中がいるじゃないか。
つうか親にもここでナニしたら丸聞こえだぞ。
ていうか寝返りうつな。
こっち向くな!
って、マジで寝てんじゃん。
ナンじゃそりゃ!
それから私は一睡もできませんでした。
彼女は結構、寝相が悪いようで、
私は何度か布団から出されました。
正直イラっとして、襲ってやろうかとも思いました。
翌朝、彼女は平気な顔して
「おはよっ!顔洗ってくるね。」
とまるで私の彼女にでもなったかのような口調で
洗面所にいきました。
そんなバーベキューの話でした。
えっ?それからどうなったかって?
それが今のカミさんです。
ってなれば素敵なエピソードなんでしょうけど、
そのあと何度かアピールしましたが、
その彼女とは何もありませんでした。
要は、いきなり自分のエリアに入ってこられたら、構えてしまうという、
どっかの和人と蝦夷にもつながるよっていうオチにしといてください。
誰だ、ヘタレつったの。
バーベキュー~中編~
どうも、しょうさんです。
バーベキューの話のつづきです。
結局、男2人に女3人、計5人を私の家に泊めることなったのですが、
さすがに
「じゃあ男子はこっちの部屋で、女子はあっちの部屋。」
と家族に断りもなく勝手気ままに空いてる部屋を使うのには気が引けたので、
私の部屋にみんなで雑魚寝ということになりました。
布団を部屋に敷けるだけ敷いて、タオルケットをかぶって勝手に寝るということで、
速攻熟睡する女子、まだ恋愛相談に盛り上がってる女子ふたりと野郎ひとり、
私ともうひとりの友達はTVゲームに夢中…。
ナニかを想像していた方には申し訳ないですが、
ほぼ修学旅行状態でした。
やがて、ひとり、ふたりと、眠りにつきはじめ、
最後までTVゲームに夢中だった私と友達は最後に寝ることになったのですが、
女子3人が並んで寝ていて、そのとなりにちょっと隙間を開けてもうひとりの私の友達が寝ています。
どう頑張ってもあと1人しか寝るスペースがありません。
仕方ないので、私だけ居間で寝ることにしました。
―消灯。
「あ~楽しかった。こんな日もあるんだなぁ。」
と今日一日の思い出にひたりながら、ウトウトしはじめました。
パチン。
廊下の電気をつける音がしました。
(トイレかな。さすがに、こんだけ長くヒトん家にいれば、もうどこに何があるかわかるか…。)
ガシャ。
確かに誰かがトイレに入ったようでした。
やがて誰かはわかりませんが、トイレから出てきて、
廊下の電気のスイッチを消す音がしました。
私の部屋(友達連中が寝ている部屋)は居間の隣にありますから、
部屋を開ける音は聞こえてきます。
しかし、その人が開けたのは、
私の部屋のドアではなく、
居間のドアだったのでした。
「エッ⁈」
つづく
バーベキュー~前編~
どうも、しょうさんです。
青森はそろそろすごしやすくなってきました。
そんなすごしやすくなった頃にあったエピソードをひとつ。
まだ20代の遊び盛りのころ、
友達の企画で、
現外ヶ浜町蟹田の海水浴場でバーベキューをしようということになりました。
もちろん蟹田の海水浴場に一番近かった、当時蓬田村在中の私が、
朝早く場所取りに行って、ひとりセッティングしてました。
一時間ぐらいして、青森市在中のみんなが2台の車で到着しました。
ひとり、二人、三人…。
いつもつるんでいる野郎3人と、見たこともない女性4,5人がこっちに向かって歩いてきます。
(え、マジ⁈)
話を聞くと、
企画した友達が仕事先で仲良くなった女性に声をかけたところ、こんなに集まってしまったという、企画した本人もびっくりの嬉しいハプニングっだったようです。
各自持参の肉や野菜や飲み物でBQパーティーがスタートします。
当時はまだ飲酒運転にそれほど厳しくない時代でして、
ビールを飲んで、肉を食っては、海に入ってキャッキャ、キャッキャと男女関係なく、みんな盛り上がっていました。
だいぶ盛り上がってたころに、雨が降ってきました。
みんな楽しかったのでしょう。
まだ遊びたいし、残った食材がもったいないということで、とりあえず撤収して、
急遽、一番ここから近い、私の家で二次会(?)をしようということになりました。
周りへの迷惑という言葉を知らなかった私は、
「おお、いいよいいよ!」
と、得意げにみんなを家に招待します。
全然かまわないと神対応だったウチの家族には、今思えば感謝しかないですが、
かなりうるさかったと思います。
私が持ってたTVゲームで盛り上がってみたり、
トランプで盛り上がって罰ゲームで泣き出してみたり、
いきなり歌いだす女子二人がいたり、
恋愛相談で盛り上がって加熱するグループだったり…。
時間はすでに夜の八時を回っていたと思います。
(さすがに私の家族に悪いと思ったのか)
明日早くに用事があるということで
私の友達の車に便乗して女子2人が帰っていきました。
んで、残った男子2人と女子3人は?
「え~、もっと遊ぼうよ。」
「泊ってもいい?」
「俺、これからみんなを送っていくのめんどくさい。」
結局、みんな私の家に泊まることになりました。
(ハァッ⁈)
つづく
よもぎたむらができるまで12
どうも、しょうさんの息子のゲンです。
蝦夷の反乱1
720年(養老4年) 陸奥国北部(宮城県大崎平野周辺)の蝦夷、関東地方などからの大規模な移民に反発し、按察使上毛野(あぜちかみつけぬの)広人を殺害
この戦乱のあと大和朝廷は、当時陸奥国から切り離されていた石城(いわき)・石背(いわせ)両国(福島県域および宮城県南部)の陸奥への再統合、
大胆な減税による民力回復、
これらに駐在する兵士を坂東諸国から派遣する鎮兵制の創設、
鎮兵を統括する鎮守将軍以下の鎮官の設置
など大胆な改革が行われます。
724年(神亀元年) 陸奥海道蝦夷(北上川下流域から三陸地方南部にかけての蝦夷)が反乱。陸奥国司を殺害
767年(神護景雲元年) 玉造柵(大崎市古川名生舘)から約20キロ北上した場所に伊治(これはり)城(栗原市築館城生野)新設
今回はここまでとします。
720年から767年の47年間、大和朝廷は自分らのエリアを北上しながら拡大していき、自分らの住む場所を奪われて、しかも強制的に和人化させられることに不満を持った蝦夷たちは抵抗を繰り返します。
しかしこれまでの47年間は、あくまでもこれから起る38年戦争の入口です。
それだけ蝦夷は理不尽な朝廷のやり方に納得できなかったのだと思います。
(参考引用文献/佐藤信編:古代史講義【戦乱篇】)
へつづく
※業務連絡です。
よもぎたむらができるまで04~10を連続で読めるようにリンクしました。
続けて読みたい方は是非ご利用ください。